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原爆・被爆体験聞き語り

原爆に遭った少女の話(漫画)79P

祖母の被爆体験を聞き、ききがたりをもとに漫画にしたものです。細々した所に間違いはありますが、だいたい合ってる。
(初出日:2012年6月3日)
※画像クリックでページがめくれます

pixivで読む方はこちら(解説なし)


A story of a girl who survived an atomic bomb.

English version is here!

Agraphic novel based on a true story
of The Girls' Domestic Science School of Hiroshima Electric Railway Company,
which was founded during WW2 to fill up the vacancies of male workers with girls,
andwas literally erased by just one atomic bomb.

 

ヒロシマを生きた少女の話(漫画)99P

 

小西幸子さん(旧姓)の被爆体験を許可を頂いて漫画にしたものです。証言集「電車を走らせた少女たち」を元に描いています。
※現在製作途中につき、pixivページに飛びます


原爆に遭った少女の話 [Kindle版]

ネットで全部読めますが、
Kindleで書籍化しました

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A story of a girl who survived an atomic bomb.

体験談

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祖母の体験談まとめ:雨田豊子

祖母76歳の時に被爆体験を書き起こしたものです。広島電鉄の体験談募集用にまとめたもの。

路面電車の運転手・車掌として被爆した少女たちの記録

  古里の広島県高田郡粟屋村(現三次市)の尋常小学校高等科を卒業して家政女学校に入学したのは、昭和18年の四月でした。
「全寮制で、女学校の勉強をしながら、戦争で出兵した男子たちに代わって電車に乗る仕事をする」ということは聞いておりましたが
三年学んで卒業したら女学校の卒業証書を頂いて粟屋に帰り、将来は和裁やお花の先生になるのが私の夢でした。
 一緒に入学した一期生は72名で、勉強と乗務を候補に行うために一組、二組に組が分けられ、私は二組に編入されました。
二組には島根県出身の方が多かったようで、職場も市内バスに配属された方が多かったようでした。
そして、私たちが電車に配属されたときには、もう女性の乗務員がおられました。
 入学した当時の学校の勉強は、講師に招かれた立派な先生方の授業は難しくてよくわかりませんでした。
それよりも、早く停留所名を覚えて電車へ乗りたい、と思っていました。
車掌になるための勉強は、はじめ学校の教室で受けました。
一人一人が先生や同級生の前に立って「次は御幸橋、御幸橋です。お降りの方は…」と声をだして停留所案内ができるように訓練しました。
それが何日かするうちに度胸が付いて、ようやく習った通りの停留所案内ができるようになると楽しかったです。

乗務で苦しかった事

 一人で車掌が出来るようになって、張り切って乗務しましたが、初めのころは大変でした。
当時は運転手さんが男子ばかりの時代で、電車も速いスピードで走っていましたが、中には横揺れの激しい電車もあって車掌泣かせでした。
右手でパンチを鳴らしながら「切符をお持ちでない方は…」と車内へ入って行きましたが、あっちにヨロヨロ、こっちにヨロヨロ、
身体を支えられず、思わずお客さんの膝の上に腰を下ろしてしまって笑われたり、時には怒られたりする日もありました。
 広島は軍都でしたから、紙屋町から己斐行きに乗務していた時には
 「右手に見えますのは護国神社でございます。礼拝をお願いします」
と案内するのも車掌の勤めでした。
 当時の電車の集電器はまだ一本ポールの時代で、折り返し終点に着くと真っ先に電車を降りて、ポールの紐を引っ張りながらぐるーっと廻して方向転換をしました。また、進行方向になる方の防護網を上げたりするのも車掌の仕事です。
そのうえ、進行方向のポールの管理も車掌の仕事で、トロリー線から外れるとすぐ直さなければなりません。
後ろの窓から身体を上向きに乗り出してポールの紐を引っ張りながら直しましたが、雨や雪の日には目に入って上がよく見えなかったので苦労しました。
ポールがよく良く外れたところは、紙屋町付近のように線路が分かれているところで、電車のスピードを落として外れないように心を配ってくれる運転手さんもがおられましたが、優しい運転手さんばかりではありません。
中には、車掌が切符を切りに入っていてポールを直すのが遅れると「早うせいやー」と嫌みを言われる運転手さんもおられました。
そんな運転手と組んで乗務をするのは苦手で、早く寮に帰りたいばかりでした。
でも、自分で選んだ道なので、逃げ出すことも出来ませんでした。つらい日も楽しくするしかありませんでした。
 勤務が午前番の時は、朝五時に組長の千金さんを先頭に並んで寮を出発しました。
雨の日も雪の日でも、みんな白鉢巻きをして軍歌を歌いながら心弾まして出勤していました。
この頃も電車の職場からは男子が出征していたようですが、学生の私たちには誰が行ったのかわかりませんでした。
 ただ切符の清算台の上に武運を祈る千人針の腹巻きが広げられてあったので、銃後の女性の務めとして私もその人の武運を祈りながら赤い糸を結んだ事を記憶しています。

楽しかった電車の運転

 昭和十九年、本科二年生になると私たちも運転手に登用されました。
これがまた面白くて、生徒の運転手同士がすれ違う時には警笛を「チンチン」と踏み鳴らし、手を振り合って合図をしていました。
直列の四ノッチにしかノッチが入らないように細工がされていて、電車の速度は「ノロノロ運転」の時代でした。
この頃A型電車(運転手、車掌室にドアーがない)を運転していると、中学校の男子生徒が追いかけて飛び乗ったり、途中で勝手に飛び降りたりしましたが、それも黙認されていたような時代でした。
 朝、出勤して乗務を一巡して帰ると、本社の食堂で朝食。お腹がいっぱいになる量もなく、美味しい物がなくても毎食が楽しみで、食べたらまたすぐに乗務に戻りました。
朝の半日を電車に乗って仕事をすると午後の半日は学校の勉強、朝の半日学校で勉強したら
午後からは電車の仕事の繰り返しで、電車に乗務する方が勉強よりも楽しかったです。
 学生さんや兵隊さんが隣に座って、優しくいろんなことを話してくれ、恋をすることもありました。
長い軍刀を腰に吊っていた軍人さんは二十二歳で、白島にあった写真館まで写真を撮りに行った事もありました。
戦争で生活は苦しくなっても、乗務して仕事をするのが楽しかった時代です。
 当時のお給料は日給で九十銭、電車賃が十銭(軍人さんは五銭)だった頃です。
その中から粟屋の両親に十銭分を送ると、とても喜んでくれました。

 米軍機の来襲を告げる不気味な空襲警報が鳴り響くようになったのは、昭和二十年の夏頃からであった、と記憶しています。
宇品方向から、たくさんのB29爆撃機が白い雲を引いて飛んできました。
その日は爆弾を落とさずにどこかに飛び去っていったのでホッとしました。
こんな米軍機の来襲を見ていると「やがて広島市も爆撃を受けるのでは」という心配もありましたが、原爆が投下されるなどとは夢にも考えたことはありませんでした。
もう当時は、学校で勉強する暇さえなくなって乗務の毎日でした。

8月6日午前8時15分、御幸橋上で

 8月6日は午前番勤務で、広島駅から紙屋町経由の電車を運転していました。
広島駅から、粟屋村の同級生「雨田ヨシエ」さんが乗ってきて「これ、あんたのお母さんから預かってきたんよ」と言って大豆を炒ったのを届けてくれ、
 「私、満州の義勇軍の兵隊さんのお嫁に行くから、最後に会いに来たんよ」
と楽しそうに語りながら同乗していました。
 そして御幸橋にさしかかったころ「ピカッ」となにかが光りました。
サーキットブレイカーが飛んだのかと思って、あわてて扉を開けた途端、目の前が真っ暗になりなにも見えません。
そのとき電車から投げ出されて後頭部を打ち血が流れていたようです。気が付けば私も友達も防空壕の中に入っていましが、中は知らない人ばかりで同乗していた車掌さんの姿は見えませんでした。
(これは後日談ですが、同窓会のときに「8月6日に同乗していた車掌は私です」と話しかけられ、「生きておられて良かった」と思っていた事がありました)
 しばらくして防空壕から出てみると、辺り一面は火の海でした。
私はとりあえず学校に帰る事にしましたが、ヨシエさんを連れて行くことはできませんので、
「ここで別れよう。あんたは広島駅へ出て実家へ帰りんさい」と言って別れました。
 それからは電車道を通って御幸橋を渡ろうとしたら、あったはずの欄干はすべて倒れ、下流側の欄干も川に落ちていました。
歩いている人を見るれば、誰もが裸同然で皮膚がぶらさがり、「熱い、熱い」と叫びながら宇品の方に向かう人波でいっぱいでした。

学校も寮も火の海 

 御幸橋から京橋川の土手を通って寮に帰ってみると、先生や生徒、寮の人たちが手押しの消火ポンプを使って寮についた火を必死になって消火をされていました。
私は寮のに荷物を取りに入ろうとしましたが、もう火勢が強くてとても中に入れませんでした。
川土手の方に廻ってみると、その日「具合が悪い」といって寮で寝ていたはずの従姉妹の小西幸子さんが、背中を血に染めシュミーズ一枚で立っていました。
窓に背を向けてうつぶせになって寝ていたのでしょう。爆風で背中一面にガラス片を浴び、足の裏も大やけどを負っていました。
 隣の専売局工場からも火が移って来ました。いよいよだめだと判断され、
「家政女学校の生徒は宇品方面へ避難せよ」と先生が大声で叫びました。
 歩くと「痛い、痛い」とうめく小西さんを無理矢理に連れて、宇品の共済病院(現・県病院)の前にあったきび畑に辿り着いた時には、
もう広島の上空は黒煙に覆い尽くされ、町の姿は見えませんでした。
飛行機の爆音が聞こえたので「また爆撃を受けるのでは」と思うと気味が悪かったです。
 共済病院では、私も小西さんも手当を受けることができましたが、小西さんは大怪我で包帯が間に合わず
三角巾三枚を体にぐるぐる巻きにしていました。
手当が済んで避難先の宇品七丁目の神田神社へ移動しました。
そこには電鉄以外の人も集まっておられ「熱いよー」「いたいよー」とうめく人でいっぱいでした。
 昼食に配られたおにぎりは、砂まじりで噛むと「ジャリ、ジャリ」と音がするようでした。
それでもお腹が空いていたのですごくおいしかったです。
焼け付くような真夏の太陽の下で、燃え盛る市街の火災を不安な気持ちで眺めていました。

燃え盛る市街の中を西広島へ

 先生たちから「電鉄の人たちは、今から廿日市の実践女学校へ行きなさい」と指示されたのは、もう夕方になってからでした。
(旧井口村の実践女学校(現在の鈴か峰高校)は、広島電鉄が設立した学校で、当時避難場所に決めていたのです)
 私たちは列になって電車通りをたどり、広電前から鷹野橋へと向かって歩きました。
電車通りはもう全部焼け落ちており、その惨状に「ヨシエさんは無事に帰っただろうか」と心配になりました。
その道で日本の兵隊さんのトラックにアメリカ兵が目隠しをされて山の方へ連れて行かれるのを目にしました。
捕虜になってどこかへ連れて行かれるのかと、思わず手を叩いて喜びました。
 鷹野橋あたりから左折して焼け跡の中を歩き、その途中で家の下敷きになっていた人、橋の下あたりからも「助けてー、助けてー」
と絶え間なく叫んでる声を耳にしましたが、どうしてあげることもできません。
 小西さんは足がひどい水ぶくれで、さらに背中に刺さっているガラス片のために「痛いよー、痛いよー」とうめきながらようやくついて来ていました。
とうとう「もう歩けない。熱いよー、豊ちゃん、私死んでもいいからもう行かん」と、しゃがみこんでしまいました。
それを励ましながら、友人と一緒になって引きずるようにしながら進みました。
 庚午あたりで兵隊さんのトラックに荷台に乗せてもらい、ようやく廿日市の実践女学校の講堂にたどり着くことができました。
講堂の中は火傷や怪我人でいっぱいで、それから看護の毎日が始まりました。

8月7日、街を歩いて改めて怖さを実感

 実践女学校に避難した翌日の8月7日、2組の松永弘笑さん(吉舎出身)が、市内の舟入病院で看護婦として勤めていた母親のことを心配して「捜しに行く」と言われたので、私も一緒に行く事にしました。
市内まで歩いて出ましたが、街の中はまだ煙がくすぶっていて、焼け跡には石か骨かわからないものがたくさん転がっていて足の踏み場も無いほどでしたし、防空壕の中の折り重なるような死者を目にすると改めて怖くなりました。
福島川の中には、人や犬や馬が水ぶくれになったように腫れ上がり、みんな腹を上に剥けて転がっていて死臭が漂っていました。
ようやく病院跡にたどり着いて探していると、崩れ落ちた病棟の屋根瓦の上に「松永ワイの遺骨」と記されている骨壺を見つけだす事ができました。
松永さんは呆然と立っておられましたが、やがて骨壺を抱きしめるようにして泣き崩れました。
母を失った松永さんの心情を思うと私も涙が止まりませんでした。
 講堂では、怪我人が「熱いよー、熱いよー」とうめきながら「水、水を」と悲痛に叫んでおられました。
しかし「水をやったらいけないよ。死んでしまうから」と兵隊さんに言い含められていたために、口周りを水で湿った布でちょっと浸すくらいしかできません。
やけどで誰か分からないほどに顔が膨れ上がった人、傷口からウジ虫が涌いて痛がっていた人、暑くても風を送ってあげるウチワさえありません。
私たちも着の身着のままで、食べる物も無く、寝るのも怪我人の間に入って雑魚寝でした。

8月8日、突然父が迎えに

 8月8日、どうやってきたのか分かりませんが、三次の奥の粟屋から「豊子迎えに来たで。帰ろう」と、父が尋ねて来てくれました。
私も帰りたかったので「帰ってもよいですか」と先生に尋ねたところ
 「雨田は怪我も軽い。今帰られたら看護する者が少なくなって困る」
と言われました。
先生からそう言われると父は何も言えなかったのでしょう。残念な顔をして粟屋へ帰っていった父の後ろ姿が今でも思い出されます。
 8月9日は、己斐から天満町までの区間を電車が走れるようになった日でした。
私は覚えていなかったのですが、実践女学校に収容されていた従姉妹の小西幸子さんの話では
 「幸ちゃん、行ってくるよ」
と言葉をかけて私が電車を運転しに行ったそうです。頭に白い包帯を巻いている後ろ姿を覚えていたようでした。
そう言われてみると600型電車を運転した事を思い出しました。
車掌さんの記憶はありませんが「金はとらんでもええ」といわれ、焼け跡の街の中を単線で折り返し運転をしていました。

看護と焼却場送りの毎日

 実践女学校へ収容されていた重傷者は、もがき苦しみながら毎日のように何人も亡くなられていました。
その様子を目にする事は辛く悲しい事でした。亡くなられた人を学校の裏山へ担架で運び上げるのも私たちがしました。
私は三回くらい野辺送りをしたと思います。
焼却場まではかなり遠くきつい登り坂でしたから、女の子4人で仏様を担ぎ上げるのは、真夏のことであり随分ときつかったことを記憶しています。
 焼き場には男子が待っておられましたが、そんなに薪が積んでいなかったようですから、油でもかけて焼かれたのでしょうか。
たくさんの遺体を焼いたあの場所は今はマンションが建ち並んでいますが、骨は拾った記憶がないので、掘り返せばまだ遺骨が眠っていらっしゃるのではと思い出します。
 焼き場へののぼり道の周りは、さつまいもの段々畑や桃の果実園があって、8月のことでしたからみずみずしい桃の実がたくさん実っていました。
暑いし、空腹であったので、つい黙って桃の実を頂いて帰り、学友たちに配ってあげました。
今でも夏がくると、あのときの桃の実のみずみずしくおいしかったことを思い出します。
 当時、食事といっても米は全くありませんでした。
大豆が多く入ったカス餅のようなもの、よもぎ団子のようなもので、生徒達が準備していたと記憶しています。
 真夏の8月のことでしたから、裏山へ死体を運んで帰ってくると汗びっしょりになっていました。
8月6日の被爆で寮を焼け出されていたため、着替えの下着も持っておらず、乗務服の上衣もきっと白い塩を吹き出していたことでしょう。
私たちはたまりかねて、夜遅くなってから、実践女学校の近くを流れていた小川に行って水浴びをしていました。
あの小川は今はどのようになっているでしょう。

敗戦後も看護と乗務、疲労で高熱

 8月15日、終戦のラジオ放送は、実践女学校の講堂に集まった元気な人たちと一緒に聞きました。
天皇陛下の終戦宣言の声を聞いて泣いたり、もう怖い戦争が終わったと思うと安心して笑顔で聞いたりしました。
そして、広電家政女学校はその日のうちに廿日市の実践女学校に居た生徒たちを帰郷させ始めました。
しかし、私たち専攻生(一期生)の一部の者は帰郷が許されませんでした。
 9月17日は、大台風の枕崎台風が広島を直撃した日でしたが、私はその日も乗務する日でした。
乗務が終わって実践女学校に帰るときも風雨が激しくて、ずぶぬれになって帰りましたが、冷えた身体を温める風呂も無く着替えもありません。
その夜からひどい発熱で、ひきつけまで起こす始末でした。
医者から注射を打ってもらってしばらく休み、ようやく起き上がる事ができました。まだ17歳の頃で、当時は随分と無理な日々を送っていたと思います。

家政女学校の解散

 9月も実践女学校に残っていて、けが人の看護や電車の乗務を続けていましたが、風邪が治ってしばらくした9月30日、
家政女学校の解散が告げられました。
楽しみにしていた家政女学校の卒業証書をもらうこともならず、退職金代わりに頂いた反物を持って、両親のもとへ帰る事になりました。
 当時、芸備線は9月17日の枕崎台風で狩留家の鉄橋が落ちていたために、中三田駅からの折り返し運転をしていましたから、会社は落ちていた鉄橋の近くまでバスを出して送ってくれました。
同乗していたのは島根県に帰る5~6人と私、それに白木に帰る末盛さんだったと思います。
 バスを降りて川を歩いて渡ったときはもう夕方でしたが、私たちの姿を見た中三田郵便局の方が急いで炊き出しをしてくださり、温かい握り飯をつくってくれました。
戦争に負けても、中三田の人は被爆者の私たちに対して心から親切にしてくれたことを今を忘れることはありません。
 島根に帰る二組の人たちと一緒に狩中三田折り返しの芸備線に乗って、三次駅に着いたのはもう真夜中でした。
一晩中三次駅に座って夜が明けるのを待ち、実家にたどり着いたのは10月1日でした。
 粟屋の実家に帰ってから再び発熱が続き、病院通いをしていましたが、あれが原爆後遺症だったのでしょうか。
 それから、ずっと気がかりだったヨシエさんの家を訪ねてみると、彼女は病床につき、昭和21年の夏頃病死されたとのこと。
「なぜあのとき一人にさせず、一緒に逃げなかったのか。かわいそうな事をした」と、今でも悔やまれてなりません。
最近は必ず墓参りをし「ごめんね」と言っています。

 広島で被爆してからもう60年。早いものです。
あの8月6日のことは、家政女学校の思い出とともに、一生忘れる事はありません。
私は戦後、三次市小田幸町の家に嫁いで54年、今は76歳になりました。娘が2人と孫6人、ひ孫2人に恵まれて楽しく暮らしています。
 広島は何度も訪ねていますが、立派になった広電の路面電車を目にして昔のことが思い出され、懐かしくって
「もういちど電車を運転してみたい」と思ったりしています。
 同時に、私たちのような時代の戦争が再び起きないよう、世界のすべての国が平和でありますように、心から祈ってやみません。

ききがたり:雨田豊子

国語表現の授業でまとめたもの。

ききがたり(高校三年生の時の国語表現でまとめたもの、途中で力つきてる)

八月六日になりますと、広島に原爆が投下されて50年でございます。
当時、18でした私は、電車の運転中に遭遇いたしました。
以来、50年間、そのことは忘れようと、必死にこことの奥底へと沈めて参りましたが、
この機会に文章にまとめることにいたしました。
これからお聞かせするのは、あのことがあった八月の、一ヶ月間のことでございます。

私の生まれましたのは昭和三年、七月六日のことでございます。
雨田家の三女で、豊子と名付けられました。
雨田 豊子。これが私の旧姓でございます。
幼い頃から体は丈夫な方でしたが、小学校三年生のとき、ひどい肺炎にかかり、生死の境をさまよいました。
そのため三学年の大半を休まねばなりませんでしたが、九年後、無事国民小学校を卒業いたしました。

ところで卒業間近のある日、当時担任だった先生が、広島に新しくできる女学校のことを教えてくださいました。
なんでも、はたらいて稼ぎながら勉強し、卒業時には女学校卒業の証書をもらえるそうなのです。
私は家族と相談し、その学校へ入学することにいたしました。
それが『広島電鉄 家政女学校』だったのでございます。

その学校に、遠くは島根から。36名ほどがあつまり、第一期生として迎えられました。
そこでは寮での生活を強いられ、最初の二日三日は故郷を胸にみんなで涙したものです。

寮の部屋はおおよそ六畳の八人部屋で、出入り口からみて正面に日の差し込む窓とちゃぶ台があり、
両端に押し入れのような感じで棚がとりつけてありました。
その上が、私たちの眠るところ。勉強するところでございました。

そこでの生活はそれほどつらいものではありませんでしたが、ひとつだけーーーしらみには大変悩まされました。
眠っていますよ、視界の端にモゾモゾやってきて、さんざん咬んでは卵を産みつけるのです。
黒いパンツの縫い目にはその白い卵が、びっしりくっついていたものです。
あんまり憎いものですから、それらの卵や親を集めて燃やしたこともございました。

学校生活について申しますと、仕事と授業は午前・午後いずれかずつに振り分けられ、
それが一週間のサイクルでありました。
でも、仕事が午前に廻ってきましたときには、朝五時に起きて仕事に就かねばならず、
午後の授業は寝てばかりだったのです。
聞くところによると、広島大学などからすばらしい先生方が来られていたそうなのですが、
私には勉強したという記憶がありません。今思うと残念に思います。

仕事はまず、アナウンスの練習から始まりました。
『毎度、ご乗車アリガトーゴザイマス。ただいまより乗車券を拝見イタシマス…』
最初は車掌としてで電車に乗り込みましたが、ほかに乗り物がないものですから連日満員で、
人の間を縫うようにして切符を
配らねばなりません。
仕事を覚えていくにつれ、車掌から運転手へと昇格していきました。
しかし、それは戦争が進んだことも原因しているのでしょう。

そうして三年と四ヶ月がすぎた頃のことです。

私が17の年ですから、昭和20年、私は一人の男性に出会いました。
この時は戦争も激しくなっており、電車の運転をまかされるようになっておりました。

七月の終わり、私たちは電車の中で初めて会いました。
話しかけてきたのは彼の方でございます。

彼は自分のことを『陸軍に志願した佐藤軍曹』だといい、私のことをいろいろ聞いてこられました。
家族のこと、兄弟のこと、学校のこと。彼は私の話に何度もうなづいては、ぎこちなく笑ったり。
彼は五歳も年上でしたというのに、そんなところがかわいく思えました。
何度電車は往復したでしょうか。そんなたわいもないことを、彼は半日かけて聞いていくと、
『次は石けんを持ってきてやる』
ーーーそう言って、飛び出すように電車から降りていったのです。

それから二日、三日とすぎていき、あれは嘘だったのだと思い始めた頃、
彼から写真を撮りにいこう、と誘われたのです。
ちょうど一週間後のことでございました。
そんな誘いは私にとって初めての経験でした。
私の父はそういったことに厳しくて、田舎の祭りにも
『夜中に女の子がうろちょろするもんじゃあない!』
と言って出させてくれなかったぐらいですから。
また、女性が殿方と一緒に歩いていただけで結婚できなくなるという土地柄でもありました。

その日は仕事が休みでしたので、私は寮長さんにはただ『外出する』とだけ言って寮をあとにいたしました。
彼とはまず、近くの写真館へ赴きました。写真屋さんは私たちを見て
「兄弟かい?」
と尋ねられました。
私はきまりが悪くなって俯いていますと、
「ええ、僕の妹で、呉から出てきたから記念に二人で撮りにきたのです」
いけしゃあしゃあと。彼の口からすらすら出てくる嘘にびっくりするやら、あきれるやら。
そんなこんなで写真を撮り終え、現像までの時間を潰すために二人して河原へ行き、おしゃべりをしていました。
数時間後、写真を撮りに行きますと、出来上がった写真をみて彼は、
これはいけない、腕のところに陰がある、といいます。
そういわれてみると、確かに黒い影のようなものがあります。
「戦争でここを怪我したらいけないから、撮り直そう」
有無を言わさず撮り直しをさせたのでございます。私は、その写真が欲しかったのですが、
結局もらい損ねてしまいました。

そうこうしていると、急に空襲警報が鳴り響きました。
彼はなるべく近道を通って私を寮まで送り届けてくださいましたが、着いた頃にはもう日が暮れていました。
寮の裏までやってくると、彼は目をつぶれ、といいました。
私がそのとおりにいたしますと、彼はいきなり私を抱きすくめ、
触れるか触れないかのキスをして去っていったのでございます。
しかし、それから結婚するまでキスの意味を知らなかったものですから、ただただ不審に思っただけでした。

「雨田さんっ いままでどこにいってたんですかっ!」
大目玉でした。
「近くにいる親戚の所に行っていたんですが、急に具合が悪いと言い出したので看病しておりました」
すらすら出てくる嘘に我ながらびっくりいたしました。彼のが伝染ったようです。
「それなら泊まってきてもよかったのよ?」
あくまで気の毒そうに言う寮長さんの言葉に、目を丸くしました。

八月四日のことです。
同じ会社にいる私の従兄弟が言いました。
「今日ね、電車の車掌してたら兵隊さんが来てね。
 『自分は豊ちゃんの従兄弟じゃけど、出兵しないといけんようになったけぇ、今日広島を発つけれど、
  豊ちゃんによろしくいっといてくれ』って言われたんよ。
  で、私も豊ちゃんの従兄弟ですぅって言ったら真っ赤んなって電車ん中駆け込んじゃったよ」
佐藤軍曹だ、とすぐに気づきましたが、
『出兵』『発つ』『よろしくと言っといて…』
という言葉には実感が持てませんでした。
(石けん、くれるって約束したのに…)
結局、一個も貰ってないな、と思いました。

二日後の八月六日は、朝から青空が広がり、暑くなりそうな日でございました。
その日を含む一週間、私は早番で午前が仕事で、寮長さん筆頭に会社までの道のりをみんなで校歌を歌いながら
歩いて行きました。
会社に着くと、玄関に女の子が立っているのが見えました。
彼女も私を見つけると『豊ちゃん』とこちらに寄ってきました。それは、故郷の私の幼なじみでございました。

「ひさしぶりじゃねぇ、どうしたん?」
「わたしね、豊ちゃんにお別れ、言いに来たんよ。今満州におる兵隊さんのとこ、お嫁に行くんじゃ」
幸せそうに笑って、やはり同じ故郷の人の名前を言いました。
そうして、私の母からのことづてという炒り豆を手渡され、二言三言話をして、
私はその幼なじみを駅まで電車で送ることにいたしました。

この日の電車は窓なしの電車でございました。
窓なしだと風通しがよくて、夏に有り難かったものです。(ドアはあった)
私たちはつもる話もあって、二人で豆を分けながらずっとおしゃべりをしておりました。
その電車が、赤十字病院の前を通り過ぎたときです。
(電鉄前から乗った監督が言うには雨田は御幸橋を渡っている時だったと)
ピカッと何かが光ったのです。
(サキットが光ったんだな)
私はてっきりそう思い、運転席となりのドアを開けて異常を見ようとしました。
ドアを開いた瞬間ーーーードォンと地面から突き上げるような感覚があり、
私は線路へと投げ出されたのでございます。

我に返るというのでしょうか。気がつくと、防空壕の中に避難しておりました。
中にはたくさんの人でひしめき合い、むっとした匂いが立ちこめております。
隣で幼なじみが泣いていました。
首筋がむず痒かったので指先で触れてみますと、ぬるっとした感じがあり、
見るとべっとり赤黒いものがついていました。
私の血です。
どうやら、電車から落ちたときにレールで切ったようでした。兵隊さんが気づき、手当をして頂きました。
なにが起きたのでございましょう。
防空壕の中は、血の匂い、汗の匂い、こげたような匂い、鳴き声、うめき声で満たされていました。
寮の方が気になり、幼なじみの手を引いて防空壕を出ました。

一瞬、すごい風を肌に感じ、目の前はゴミが舞い、何も見えませんでした。
本当に信じられませんでした!
外は真っ赤な火で覆い尽くされ、人々は裸で逃げまどっています。
火傷で真っ赤に火ぶくれした体をひきずって歩く人、道ばたに横たわって助けを呼ぶ人、水が欲しいという声、
焼け死んだ馬。
空は黒い煙で覆われ、周囲は炎の光で明るく照らされておりました。
「私、寮に帰るけぇ、広島駅を道すがら人に聞いて探して帰りんさい」
どうかしていたのでしょう。そう言い残して幼なじみと別れ、寮へ急ぎました。

寮への道は死ぬほど長く感じられました。
火傷であちこち剥けた皮をひきずって、おばけのようになった人が歩いていきます。
周りに知った風景など一つもなく、すべての家屋が倒されていました。
火傷を負った人や水を求める人が川の中へ飛び込んでいましたが、ちょうど引き潮で川には水がありませんでした。
「いやだいやだいやだいやだ……」
何度も祈るようにつぶやきながら、この地獄から逃げようと必死に走りました。
寮へやっと着きましたが、なんと言うことでしょう!寮にも火が燃え移っていました。

みんながバケツリレーで火を消そうとしています。
荷物を取りに入りたいのに入れません。
先生やみんなが手押しポンプやバケツで水をかけつづけましたが、火の勢いはどんどん増していきます。
「だめだぁ、みんな!避難するからついてこぉい!」
バケツを投げ捨て、全員先生に先導されて寮を離れました。
私も逃げ出そうとすると、従姉妹が寮の廊下の壁にもたれかかっているのに気づきました。
シミーズ一枚の姿に、ガラスが無数に背中にささっておりました。
その日、気分が悪くてうつぶせになって寝ていたところに、ガラスが降ってきたらしいのです。
「もうだめよ、私ここで死ぬんじゃぁ。豊ちゃん、一緒に死のう」
「なにゆうとるんね!生きにゃいけんよ!」
無理矢理彼女を引っ張って逃げました。
全員、宇品の病院の裏にあるサトウキビ畑に入って、身の丈ほどもあるキビの中に身を潜め、
危険が去るのを待ちました。
頭上でブーン、ブーンと飛行機の飛び回る音が聞こえます。
(ああ、あの飛行機が爆弾を落としたんだ)
そう、気づきました。

夕方、寺へ避難すると、おむすびが昼食として運ばれました。
そのとき、朝食も昼食も食べていなかったことを思い出し、急に空腹を覚え、
砂まじりのおむすびで口の中がざらざらしましたが、みんなむさぼるように食べました。

私たちは、実践女学校(現・鈴が峰女子短大)へ、怪我人の看護や死体の処理に連れて行かれました。
私は比較的軽傷だったので、八日から電車の運転にかり出されました。
レールが曲がってしまっていたので、単線運転、それも広島の中心には行けません。
何度も同じ場所を往復して、けが人や、広島に家族のいる人たちを乗せたのです。
この頃には火も治まり、無惨な焼け跡が広がっておりました。

体育館で毎日、死ぬ者と迎えが来る者に分けられておりました。
死ぬ者は担架で山に運ばれて、焼かれたのでございます。
体育館では毎日、何十人も亡くなりました。
自分も吐血し、生死をさまよいました。

20日頃、大雨があり、橋などが流されました。
その日も電車の運転をしていました私は、川の中を渡って帰ったことが原因で風邪で倒れ、
引きつけや痙攣を起こしみんなに死ぬものと思われておりました。
ラジオはありませんでしたが、噂で、広島に落ちたのは『ピカドン』で、戦争は終わったことを知りました。
悲しゅうございました。
日本が負けたことが悲しかったのではなく、どうしてこんなことになる前に、
なにもかも焼け尽くされる前にやめなかったのか、と。

田舎に帰ると、幼なじみは肺病で床に臥せっており、翌年、死にました。
広島にいた姉を見舞うと、鼻の穴、耳の穴と、穴という穴すべてから血を流しておりました。
親も死ぬものとあきらめていたそうですが、今も健在でございます。
私は今年66歳になりますが、元気です。

八月六日の話:雨田豊子

体験談を集めている人に、祖母が書いた手紙を清書・補足したものです。

八月六日当日の話抜粋(婆の手紙から)

 昭和二十年八月六日ちょうどは、17才でピカに遭っているので三年生の夏です。
その日私は早番で、朝から電車の運転手をしていました。
御幸橋の上だったのよ、と同乗していた(らしい)監督さんに聞かされました。
その日のことは、ピカの衝撃で電車から落ちて以降は、防空壕に避難していた時までの記憶がありません。
ただ、寮に近い場所であったので良かったと思います。

 その日の車掌さんもお客さんも、どうなったのかどこに行かれたのか分かりません。
とにかく、防空壕から出てみれば、広島の町、煙や火の海で分からず、
空では飛行機の音がブブーと鳴っており気味が悪く、
B29が爆弾を落としたのかと思い恐ろしくなりました。

 爆風で橋の欄干はきれいに倒れており、男とも女ともわからない姿の人たちが、
みな服を着ておらず裸で、身体の皮が手も足も顔も剥けてお化けのようにぶらさがって
 「熱いよ~ 助けてー」
と言って御幸橋の上を宇品方面に歩いていました。

 恐ろしかった私は、御幸橋を渡って川土手を通って学校と寮のある方へと帰りました。
その日たまたま同乗していた同級生には
 「一緒につれて帰られないから、電車通りを広島駅へと向かって帰ってくれないか」
と申し訳なく言い別れました。
 寮の方へ戻ると、建物に火がついていました。
山崎先生が生徒を連れて手押しポンプを押して、生徒を連れてバケツリレーで消火をしていましたが
専売局が隣接しており、また近くにガスタンクがあったので危険と思われたのでしょう、
 「女学生は宇品へ避難しなさい」
と指示されました(当時の第一避難先は宇品の神田神社)
 私は荷物を取りに寮に入りたかったのですが、危ないからと先生に言われ、身に着けた会社の制服のまま
なにも持ち出すことは出来ませんでした。

 寮の裏の川土手では、従姉妹の、増野の幸子さんがいました。
 「あらさっちゃんやないの!元気でいて良かったね」
といい、抱きあって泣いたのですが、従姉妹の背中には無数のガラスが突き刺さっていました。
その日、早出勤務だった幸子さんは、急な腹痛に襲われて仕事を休み寮で寝ていたのですが、
爆風で寮の下敷きになり、うつぶせに寝ていたために背中一面と足の裏にガラスの破片が刺さり
火傷をしていたのです。
シミーズ一枚身につけた姿で、赤く染まり、苦しそうにしていました。

 足の裏を火傷して痛がる幸子さんを引っ張って、電鉄の生徒は並んで宇品方面へと避難しました。
途中、空襲警報のために十丁目の共済病院の裏にあるサトウキビ畑の中に避難しました。
サトウキビの間から見える空は、煙やゴミが舞い上がっているために真っ黒に覆われていました。
そこに、姿は見えませんがB29の音が聞こえ、ひどく気味が悪かったです。
 共済病院に行って私は後頭部をかなり深く切っていると言われ手当を受けました。
幸子さんも火傷には白い薬だけ、でも多くに人だから年を入れず背中は三角きんをかぶせて覆ってもらっていました。

 再び宇品七丁目の神田神社に向かい
(途中幸子さんは「私はもう歩けない、死んでも良いから一人で逃げて」というのを無理矢理引っ張り)
到着してみると、多くの人が寄っていました。
そこで電鉄からおにぎりが支給され、砂が混じっているのかジャリジャリ音がしましたが美味しく食べました。
 「この場所は夜が危ない」
と電鉄から指示され、五日市の実践女学校へ避難することになり、宇品を後にし、
電車道を通って鷹野橋へと進みました。

 途中に進む道路には死体が山のように積み上げられたり、私たちの歩く路肩にも死体があります。
 「助けてー 水、水」と言って泣く人、様々な人。
助ける事も出来ず両側も火の海で、せめて踏まないように歩くのがせいぜいです。
煙で目が痛く、暑く、隣では幸子さんが何度も「私は駄目だから置いて行って、逃げて」と言うのを
がんばれ、がんばれと無理矢理八時間くらいつれて歩いて、◎○町あたりまで進んだとき、兵隊さんのトラックが来て
実践女学校のあたりまでみんなを乗せて頂きました。

 講堂に入った時は、ござを敷き詰められて怪我人や火傷を負った人が狭苦しいほどに収容されていました。
その人たちはもう、ハエがたかりウジ虫がぞろぞろと這っています。
元気な人がそれを毎日取り除き、また、次々と死亡する人を担架に乗せて山の上に担いで登り、
大きな穴の中に入れて火をつけて燃やします。
 ゴミを捨てるかのような感じでした。

 電鉄の家族の人が「うちの子供はどこにおりますか」と尋ねてくる事もありましたが
下級生の顔を知らないばかりか、そこに居る生徒の顔は焼けただれて腫れ上がり、
人相がわからないので答える事ができません。
毎日3~4人は死亡していて、私たちは死体を担いで山に登り、男性は骨を講堂へ持って帰っていた様子です。
 幸子さんは14日には三次から迎えが来て、父母達と一緒に粟屋の実家へと帰って行きました。
私の父親も、8月8日には迎えにきてくれたのですが
 「雨田は怪我があまり酷くないようなので、帰ったらいけん。けが人を看病する人がいなくなる」
と山崎先生に言われ、とても帰りたかったのですが泣く泣く父と別れて残ることになりました。

 翌日、私は頭に包帯を巻いて電車の運転をしました。
ピカで使えなくなったレールを男性職員の人たちが一生懸命に修復し、8月9日には己斐から天満町まで
単線運転ができるようになっていたのです。
その時に「お客様からは料金は頂かなくていいから」と言われていました。
 「広島の家族が、どこかに居るかと思って探しに行くのです」
と言って広島の町に家族を捜しに行く人が多く乗車されました。

 それから私は、電車の運転をしたり看病をしたり。
八月十五日には天皇陛下の終戦宣言を、他の元気な人と泣いたりわらったりしながら聞きました。

 九月三十日、家政女学校の散開を告げられました。
学校からは退職金代わりに布切れ三枚を貰って、島根県の人、白木町の谷口さんとバスで途中まで送ってもらい、
枕崎台風で流されたカルガの橋を、川の中を渡って超え、そこにある郵便局でおにぎりをもらい、
また汽車に乗って三次駅まで行きました。
駅で一晩を過ごし、朝早くから出発し、島根の人と別れを告げて粟屋の実家に戻りました。

 帰った途端気が抜けたのか、その日から高熱を出し寝込みました。
元気になって幼なじみのもとを訪ねると、彼女は病床につき、翌年亡くなりました。

幸子さんの被爆体験談:増野幸子

「電車を走らせた女学生たち」より転載。広電・きむらけんさんの承諾済み

増野幸子さんの体験記(電車を走らせた少女たちより)

 私の古里は、現在の三次市粟屋町(当時は高田郡粟屋村)で、粟屋国民学校を卒業と同時に、当時吉田町にあった職業紹介所を通しての入校で、今、考えてみれば14才のまだまだ子供でした。
 子供の頃、親に連れられて広島市に出た時、街中を走っている電車を見て「格好がいいな!私も広島に出て電車に乗務できるようになりたい」と強く希望するようになりました。一年先輩の従姉妹、雨田豊子(現在は児玉豊子)お姉さんが、すでに広電家政女学校に入校されていたので、迷うことなく入校する事になりました。

 三次の奥の田舎から大都会の広島市に出て、あこがれの電車に乗務しながら勉強できる、ということは、私にとっては大変な魅力でした。
 同期に入学された方は130名。全寮制で寮は皆実町二丁目にありましたが、敷地の西側は京橋川の川土手で、北隣には広島ガス会社、東南側には細い道路を挟むようにして専売局の工場がありました。すでに寮には70名の二年生がおられました。
 私が入った寮は、京橋川に一番近い寮の二階の室で、京橋川の流れを隔てて御幸橋や対岸の千田町がよく見える、眺めのよい部屋でした。室内には電燈が一個だけぶらさがっていましたが、すでに夜間の空襲に備えた燈火管制用の黒い覆いがかぶせられていたのが、今でも記憶に残っています。
 親元を離れて憧れの都会生活が始まるのだ、と思うと「しっかり勉強して親孝行をしなければ」と張り切る反面、ちょっと寂しく不安な気分でした。

 私たちが入学した当時は、まだ米軍機による広島市内への空襲がない時代でしたから、半日は学校で勉強、半日は車掌業務をする、という日々でした。学校での勉強は、いわゆる一般教科と併せて、当時は女の子の教育に必要な「家事」や「裁縫」などの教科もありましたが、男性乗務員の方が次々に軍隊に招集されていった時代でしたし、江波線や比治山線の開通も間近にせまっていた時代でしたから、会社は私たちを一日も早く一人前の車掌に育てたかったのだろうと思います。

 車掌教育はまず、停留所を覚えて大声で車内案内することや、切符の種類や乗客との接し方を「山崎先生」から教わり、先輩車掌についての車掌見習いは3週間あまりで終わって、すぐ一人立ちの車掌になりました。
人によっては「初めの頃は胸がドキドキして顔が火照り、大声を上げて停留所案内が出来なかった」ということもあったようですが、私は初めから気後れすることなくテキパキと車掌業務をこなす事ができた、と思っています。

 当時の電車の集電方式はポール方式で、電車の屋根の中央部からトロリー線に向けての竿状の棒が伸び、先端に「トロリー線」をはめる回転駒がついていて、それから集電する方式でしたから、カーブにかかるとその回転駒がよく外れました。車掌は、その度に走行中の電車の後部の窓から身体を乗り出してポールエードを引っ張り、調整しながら先端の駒をトロリー線にはめなければなりませんが、それがなかなかはまらないんです。もたもたしていると男子の運転手さんの中には「早うせんかい」と大声で督促される方もいました。そうなると、ますます焦って上手くはまらず、泣きたくなる事もありました。
 また、雨の強い日は、上向きに空を見上げるようになるので、目に雨が入って大変でした。
 それから、宇品や広島駅前、己斐などでの折り返しの時にはポールの方向転換もありました。これも車掌の任務で、雨の日の雪の日も重いポールコードを一日に何回も引っ張りながらの作業でしたね。14才の少女にとって、車掌業務は本当に大変でした。

 当時の電車の主流は木造小型の単車A形電車で、被爆電車の650形ボギー車は当時の最新鋭車でしたから、650形に乗務が回って来た時にはちょっと誇らしい気分になって嬉しかったです。
 しかし、A形電車は、客席は扉で仕切られていたのでまだ良かったのですが、運転台も車掌台も吹きさらしでしたから、とくに冬季は乗務員泣かせでした。今は見る事もない症状ですが、当時は手足に霜焼けができて、ひどい人は皮膚が赤紫色にうっ血し、それが暖まると我慢できないほど痒くなるのです。これは凍傷のようなもので、手も足も特に小指がひどかったですが、そうなると縫糸をぐるぐる巻きにして強く締めて一旦うっ血させ、そこに縫い針を差し込んでうっ血を搾り出す、という荒治療を自分でしていましたね。そうすると、痛みも残ってか、しばらくの間は痒いのが我慢できました。冬の寒い朝、一番乗務して帰っても、休憩室には小さな炭火の火鉢が一個だけでしたから、手足を温める間もなく次の乗務に行く事も再三でした。

 A形でのラッシュ時間帯での運行も大変でした。
 当時は、まだバスの運行が少ない時代でしたから、電車は「軍都唯一の交通機関」で、通雨期んや通学時間に遅れまいとする乗客が、運転手も車掌も動けなくするほど詰め込んでくるのです。それでも乗れない人は、ステップに足をかけたり、防護ネットの枠に足をかけて窓枠にぶら下がるようにしてしがみつき、電車が二倍にもふくれあがったような様子で運行していましたから、ただ乗りされた方も多かった事でしょう。
 こんな超満員の危険な運行がされていても、警察から注意や指導を受けた、という話もありませんでしたし、乗客が転落事故を起こしたという話も聞いた事がありませんでした。もっとも、当時の運行速度は直列4ノッチまでで、時速も10キロ程度の速度でしたから外にぶら下がっている人の中には、停留所以外の自分の都合のよい場所で飛び降りされる方もいました。
 きむらけん氏の『元電鉄家政女学校の記憶』に、私たちの勤務ぶりを次のように詠まれていますが、当時の事を見ておられたような表現に感嘆するばかりです。

 ーーー切符をお持ちでない方 いらっしゃいませんか。
 カチン カチカチ カチン カチカチっと
 ハサミの音は ちょっと誇らしげ
 乗客をかき分け かき分け パンチが通る
 ときにはブラウスのふくらみに
 硬い手が伸びてきて 少女は顔を赤くする
 カッチン カチカチ カッチン カチカチ
 非国民には音高くして 戒めるのみ
 それでも悪戯坊主には果敢に制裁
 電車の防護ネットに中学生徒
 やつらには窓から げんこ一発
 何から何まで少女車掌は忙しい
 鳥居通過の案内も大事な仕事
 「護国神社でございます。ご礼拝お願いします」
 皇国少女は一段と声高くはりあげてそっと一礼ーーー

 当時の護国神社は、今の市民球場あたりにあり、その表参道には石の大鳥居がそびえ建っていました。
市民の方が鳥居前を通る時には、必ず護国のために戦死された英霊に対して合掌をして通る事が銃後の務めでしたから……。 


 本当は、このようなことは書きたくないのですが、一年生の時に入居していた寮での事件でした。
当時は、今日では考えられないような不衛生な時代で、私たちも寮生活の中で蚤やシラミが蔓延して困っていました。
聞いていた話では、乗務中にはどうしても乗客の衣服や髪などに触れる事があるので、その時にうつされたのだろう、という話でした。
汚い話ですが、衣服につくシラミの胴は白く、髪に住み着くシラミは黒く、一度付着するとなかなか退治し尽くすことができず、身体や頭がかゆいのには苦労していました。
 ところがそのうち、朝起きた時に蚤やシラミに噛まれた痕と違う傷跡や痒さがあちこちに出来だしたのです。そのうちに「これは南京虫に噛まれた痕」ではないか、ということになりました。
 しかし、はじめの間は「日本に南京虫がいる」という話も聞いたこともなかったし、ましてや私たちの寮に住み着いている、ということは考えられませんでした。
そこで、それぞれが布団をひっくり返しながら隅から隅まで調べてみました。それらしい虫は発見されません。ところがベッドの木枠などの隙間に、赤茶黒いような胴をした米粒の半分くらいの不気味な虫が潜んでいるのを発見したときは驚きました。早速、その虫を引っ張り出そうとするのですが、木枠の隙間にしがみついていて出てこないのです。それならと、縫い針を出して胴を突き破って退治したのですが、胴体が破れた時に出る悪臭には閉口しました。
それからは、暇を見つけては私たちの大切な血を吸い取る憎き南京虫退治が続きました。当時は殺虫剤がない時代でしたから、一匹一匹、見つけ出しては退治しなければなりませんでした。
今、思い出しても、身震いがするような「南京虫退治」の日々でした。


 昭和19年当時は、もう食料統制の時代で、たしか主食のお米は一人につき、一日2合3勺の配給の時代でしたから、広島市のような都会での食生活は大変でした。私の実家は農家でしたから、家政女学校に入校する以前には、祖父母や母のおかげで「空腹だ」ということはありませんでした。
ところが、昭和19年も終わり頃になると、寮の食堂で給食される主食は脱脂大豆の混入が多くなり、雑穀が増しました。
昭和20年頃にはさつま芋が切り込まれたものへと主食の質が低下してきました。そのうえ寮も茶碗に一杯飯。食べ盛りの私たちにとっては本当につらい「腹ぺこ」の時代でした。
お腹が空くので食べ物を買おうと思っても、広島市内では売っている店がないのです。時々、八丁堀の福屋百貨店で白菜中心の雑炊が売り出されて、市民が行列をつくっているのをみかけましたが、私たちは学校や乗務があるので並ぶことはできませんでした。
しかし、腹が減っては戦はできません。そこで実家に頼んで、火を使わなくてもすぐ食べられる煎り空豆やはったい粉、焼き米やお餅などを送ってもらい、補食していました。また、寮には、訪ねてきた家族との面会や宿泊できる室もあったので、補食できる食料を度々運んでくれ、時には蒸しさつま芋も抱えてきてくれました。家から届いた食べ物は同室の人と分けあって食べていました。

 私が二年生になった昭和20年頃からは、食べ物はますます無くなり、栄養不足と連日の乗務から疲れ果て肋膜炎や脚気などを発祥され、家に帰った人もいました。私はビタミンをたくさん含んでいるはったい粉を補食していたおかげか病気にもならず、連日乗務する事ができたのだろう、と思っています。

 しかし、食べる物はない。電車は夜遅くまで運転させなければならない、病人は出るという時代。そこで会社は夜、遅番勤務者には、勤務終了後に、せめてものお夜食にと、四角い「江波ダンゴ」を一個支給してくれるようになりました。江波ダンゴは、食べる物がない当時の厳しい食料統制にもかからない広島で唯一、自由に買える代用食でしたが、その中身は米糖やよもぎ、鉄道草まで混入されていると言われていました。
とにかく空腹でしたから私も食べましたが、今「食べなさい」と言われて出されてものどを通りそうもない代物でした。
 みんな食料不足に悩んでいた時代でしたが、「田舎から送って来たから」と豆類をくださった中学生の方もありました。私たちは、苦しい中にも多くの方達の支援と助け合いによって家政女学校時代を頑張る事ができたのだ、と思っています。


 私が入学した頃には、すでに男性乗務員の方は全体の5分の3ぐらいではなかったか、と思われます。その後も軍隊に次々と招集されて行かれたため、会社は運転手不足に悩まされていたようでした。
そこで会社は、軍需工場としての任務を果たすため、1年生の私たちまで運転手に登用されることになりました。

 当時の運転手の養成方法は、いきなり先輩の運転手さんが運転されている電車に乗り、見よう見まねで電車を動かして練習を重ねるという方法でしたから、練習電車に乗り合わせたお客さんは不安だったろうと思います。
私の、運転手登用のための師匠さんは、家政女学校運転手第一号の羽場モリノさんでしたが、広電前からのコースを何回か廻ってから監督さんの試験を受け、すぐ運転手を命ぜられました。当時の電車は、右手で手動ブレーキのワッパーを力一杯回してブレーキをかけ、電車が停止する前に少しブレーキを戻すと衝撃なしに電車を停止させることができることも運転を重ねながら覚えて行ったのが実態でした。それでも「私が電車を運転しているのだ」と思うと何か誇りがましく思え、日々のつらい事も忘れて一生懸命でした。
 『元家政女学校の記憶』では、当時の私たちの姿を次のように記されています。

 ーーー女学校には鉢巻きが増えてゆくばかり
 14才から16才まで
 本科専攻科併せて総勢三百名余名
 方程式や漢文に居眠りしていたのはもう昔
 日ごと警報サイレンつのる中
 朝から晩まで切符の売りさばき
 パンチばかりかハンドルまでも
 コントローラーの扱いもおぼつかないまま
 古参運転手の言う通り見よう見まねの機械操縦
 それでも己斐へ 宇品へ 江波へ 駅前へと
 4ノッチの低速運転で娘達が市内を駆け巡る
 離合 それは上り下りの出会いと別れ
 白神社を過ぎて袋町の大楠木にかかるころ
 向こうに見えたのはボギー車台の650形
 右足が自然にフッとゴングだ
 対向新型は接近するも運転台に人影もなし
 こちらの百形単車の白鉢巻きは首を傾けた
 そのとき車番654番が突然に「ジイリン」放つ
 向こうのコントローラーの陰におかっぱ頭がちらり
 少女運転手はあわててゴングを強く蹴る
 大正元年生まれの百形ベル高らかに
 こんにちは さようなら
 鐘に託した挨拶に 若い命が響き合う
 「うちらも生きとる」と思う一瞬
 ひもじさも 怖さも 憎しみも 疲れも飛んで
 警鐘の余韻は革屋町から広島駅までーーー

 現在でも離合電車の様子を見ていると、運転手同士が軽く手を挙げあったり、目礼をされているようですが、60年前の私たちと同じ「出会いと別れ」でしょうね。
違うのは、警笛を踏み交さないことぐらいでしょうか。


 今の14、15才の女の子、といえば中学3年生から高校1年生でしょう。もう立派な体格の方もおられますが。当時の私たちの体格は大体小柄でしたから、まだまだほんの「少女」のように見えたことでしょう。
その小柄な少女たちが、紺色の乗務服に白襟、腰には幅広の白ベルトを、そして頭には社章の入った白鉢巻きをキリリと締めて、軍都広島の大切な交通機関である電車を一生懸命に運転している姿を想像してみてください。市民や利用者の目にはきっと、痛々しくもあり、また雄々しい「皇国少女」として映り、好意と好奇心の目で見られていたとおもいます。
中には、今で言う「ナンパ」を仕掛けてくる学生さんもおられました。夕方、目立つように口笛を吹きながら皆実町二丁目の女子寮の周りを行ったり、来たりされている学生さんもおられると、もっぱらの噂でした。

 昭和20年早春の頃、私が電車を運転していると、長い軍刀を腰に吊った立派な軍人さんが乗ってこられ
 「今日は雨田豊子さん、いや!雨田豊子はどこを乗務していますか」
と色んな話をしてこられました。私は「なにか御用でしたらお伝えしますよ。お名前は?」と尋ねたところ「私は従兄弟の佐藤です」と言われましたが、私の親戚に佐藤という名前の人はいなかったので「私も雨田豊子の従姉妹ですが」と言ったら「あっ!そうですか。どうもすいませんでした」と言われて、照れくさそうに降りていかれました。
そのことを従姉妹の豊子姉さんに話したら、「私のことが好きな人よ」と照れくさそうに笑っていました。軍人さんたちからも好意が寄せられていたようです。

 それから、これは内緒にしていたのですが、私にも淡い思い出がありました。
まだ、車掌をしてた頃でしたが、千田町の広電本社の反対側にあった「県立工業高校」に通う学生さんから「映画を見に行こう」と誘われ、八丁堀にあった宝塚劇場につれて行ってもらったのです。
 この映画は、当時の人気女優「宮城千賀子」さんと「高山麗子」さん主演の「狸御殿」で、あの軍国主義時代にはめずらしく華やかなミュージカル調のものでしたから大変人気があり、家政女学校の生徒もよく見に行っていたようです。
 これが私の初デートでしたが、当時は若い男女が一緒に歩いていたら泣く子も黙ると恐れられていた憲兵から「こら!何をしとる」と譴責されるような時代でした。外を一緒に歩くこともなく「では、またね!」と言葉を交わして劇場の入り口で別れました。
ところが、この初デートのことが彼の学校側の知るところとなり、両親が学校に呼び出しを受けて「戦場では兵士が命がけで戦っている時、銃後を守らなければならない学生が女の子と映画館に行くとは何事か!」と随分説教されたそうです。彼は「退学になるかもしれん」と心配していました。その彼も、昭和20年頃には江波の三菱造船所に学徒動員をされ、勉強どころではなかったそうです。
 これは後日談ですが、私は8月6日に被爆して実践女学校に避難していましたが、8月14日に母や姉、妹らが迎えにきて、古里の三次・粟屋村に帰り、通院治療を受けていた当時に、彼から何度も手紙が届いたそうです。
差出名が男性だったので「娘のためにならないと思い、全部焼き捨てた」と後になって母から聞かされました。
私の被爆を心配し、住所を探し、捜しての見舞いの手紙だったのでしょう。今にして思えば、どんなことが書いてあったのか「読んでみたかった」と心残りです。


 運命の8月6日が近づくにつれて、広島市の上空に飛来し、通過していく米軍機は日増しに多くなりました。
 米軍機が飛来すると官庁や工場の屋根に設置されていた警報機が一斉に鳴り響き、その音は不気味で、不安をかき立てられました。
広島市内でも米軍機の機銃掃射を受けてなくなった方が出たとか、市役所あたりに爆弾が落とされたらしい、ということが、会社や寮での話題に上るようになりました。
7月頃だったと記憶していますが、「沖縄が玉砕したらしい」とか「隣の呉市はB29爆撃機の攻撃を受けて全滅している」という話を通勤者などから耳にするようになり、「次は広島市が爆撃を受ける番では」という話題も出ていましたから、不安な毎日でした。
夜間に空襲警報が出ると全市内への送電が停止され、市内はまったくの暗闇になっていました。もちろん、電車への送電も止められるので動けませんでした。
 不気味な空襲警報が鳴り響く中で、息を詰めるような思いで、乗客と一緒に「早く送電が再開されないかなー」と祈るような気持ちでした。それでも、8月5日の夜までは空襲警報が出て停電しても、電車が10分も停止していることはなかった、と思います。
 
 昭和20年8月5日は確か日曜日でした。
私は午後番勤務で、しかも広電、宇品、広島駅、己斐廻りで千田車庫の最終便の乗務でした。
とにかくものすごい爆音の連続でした。電車の外では「ウウウー、ウウウー」という不気味な空襲警報が鳴り響いていました。いつもなら最終便でもお客さんが2~3人は乗っておられるのですが、この日は日曜日のうえに空襲警報が激しかったせいか、一人もおられず、暗闇の車内に車掌と私が閉じ込められているようで不安な気分でした。とうとう一年生の車掌は、いたたまれなくなったのか私の側に来て「怖いよー怖いよー」と泣き出しました。私だって逃げ出したいほど怖かったです。
 電車が止まっていたのは土橋付近でしたが、ふと夜空を見上げるとサーチライトの光線が2筋、3筋、夜空を舞っていたのが今でも強く印象に残っています。たしか宇品の方向だったと思いました。停電は30分以上も続いていたと思いますが、やがて飛行機の爆音が聞こえなくなり解除されたので、ようやく電車を動かす事ができました。この夜は、電車を動かしだしたらまた停電したりして、普通なら11時過ぎには勤務が終わる筈でしたが、車庫に帰り着いたのは6日の深夜1時過ぎになってからでした。寮に帰り着いた時は、もう2時半頃でしたが、寮では寮長の先攻科生、明賀さんが心配して寝ないで待っていてくれました。

 8月6日は早出勤務でしたから、乗務服を脱ぎ捨てるようにして、すぐ布団に転がり込みました。早く寝ようとしたのですが、昨夜からの空襲警報中の恐ろしさが頭から離れず、とうとう寝付けませんでした。出勤時間が来て、起床の合図があったので、眠いまぶたをこすりながら身支度を整えて出勤前の点呼に出たのですが、急に激しい腹痛に襲われました。点呼をされていた先生の許可を受けて欠勤する事にしました。再び布団に横になってからは昨夜の疲れが一度に出たのか熟睡していたようです。
 そして運命の8時15分!
 私はなにかに叩き付けられたような強い衝撃で目を覚ましました。
室内はかなりの埃が立ちこめて薄暗く、何が起きたのかさっぱりわかりませんでした。ふと見上げると、あったはずの天井がなく、真っ黒い塵埃が舞い上がり、爆風で飛ばされた瓦礫が私の身体を叩き付けて、手も足も埃だらけでした。それからは、どうやって脱出したのかは記憶がありません。気づいた時には、寮の食堂前の広場に立っていました。
 食堂前では寮生が7~8人集まっていて「爆弾だ」「爆弾だ」と泣き叫びパニック状態になっていました。私も気が動転していましたが、ふと気づくと右足の甲がひどく熱く、あっという間に大きな水ぶくれができたので、火傷していることに気づきましたが、寮には火の気はないのに何故だろうと思いました。早く冷やさねば、と焦ったのですが、とっさに寮のそばを流れている京橋川に足をつけて冷やそうと考え、痛む右足をひきずるようにしながら寮の外に走り出しました。そして、そこで目にした「地獄絵図」に一瞬、立ちすくみました。

 顔が大きく腫れ上がり、着ている服はボロボロ、腕の皮膚は焼け爛れてズルーっと剥げ、まるで海草のワカメを両腕からぶら下げたような格好をされた人たちが、血だらけの姿で「熱い、熱いよー。助けてー」と泣きながら、よろけるように比治山橋の方に向って歩いて行かれるのです。いったい何処で何が起きたのでしょうか。
 私は我に返り、川岸の石段を下りて行き、膝下まで川水に入って火傷を冷やしました。すると、火傷を負った人たちが「熱い、熱いよ」と泣きながら、私の立っている石段の横を通って川の中に、入って行かれ、いつの間にか姿が見えなくなりました。また一人、また一人と、まるで川に飲み込まれるように消えていきました。
 川向こうをみると、市内の中央部は見渡す限り黒煙が空高く舞い上がり、その煙の下では「メラ、メラ」と真っ赤な炎が噴出していましたが、それは今まで見た事のない恐ろしい光景でした。「寮に帰ってみなければ」と思ったのですが、どうも背中に生ぬるいものが流れているような気がしましたので、側にいた人に「ちょっと私の背中どうなっていますか」と聞くと「わあ…すごい怪我をしていますよ」と言われました。背中は自分では見えませんでしたが、腰から足にかけて血が流れているのを見えた途端、目に浮かんだ母の顔…「お母さん!助けてー」と思わず叫んだ事を覚えています。
急いで川岸の石段から道路に上がってみたら、私たちが住んでいた寮がぐしゃぐしゃに崩れているのが見えました。食堂の前あたりには出勤していなかった寮生や、出勤していて被爆した生徒や男子の運転手さんたちも集まっていて、大騒ぎをしていました。
私は寮で寝ていたので何も分からず、いつの間にか外に飛び出していたので、身につけているものはパンツとシミーズだけで、その上はだしでしたから「どうしよう」と呆然と立っていました。
私の姿を見つけた高木先生が「何をぼやぼやしているの。何か着なければどこにも行けやしないよ」と声をかけてこられたので、それから慌てて服を探さなければと思い、寝ていた寮へ帰りました。
 当時、私がいた寮は元男子の成年学校の教室でレンガ造りの平屋建てでした。寝ていた部屋も、崩れ落ちていて、私の乗務服が見当たりませんでした。それでも瓦礫の隙間と言う隙間を必死に探すのですが、はだしでしたし、背中の傷に突き刺すように真夏の太陽が照りつけて痛い。誰かが「早くしないと学校が焼け出したよ!早く、早く」と叫んでおられるのが聞こえたので、私も必死で探しまわりました。すると瓦礫の隙間に、わずかに黒いものが見え、それが乗務服だと分かったときはホッとしました。しかし、瓦礫にひっかかって、なかなか出てこないんです。イライラしていたら「早う降りて来いよ、もう寮に火が廻ったぞ」と叫ぶ男性の声が聞こえたので、私も必死でした。ようやく瓦礫から乗務服を引っ張り出して、それを抱え、広場に出て埃をたたき、ズボンをはくことが出来ました。上衣は背中が痛いので手に持ったままでした。その時にはもう寮が炎に包まれて、みんな悲しそうに燃える寮を眺めていました。
「危険だから逃げますよ」という先生の声に促され、寮からの逃避行が始まりました。

 戦火を受けたときの避難場所は、実践女学校と決められていましたが、市内が大火災でしたから、宇品七丁目にある神田神社の境内に避難するように言われ、30~40人の集団で寮から京橋川の土手に出て御幸橋の電車道を横切り、川沿いから広陵中学に抜けるコースをとる事になりました。途中から見えた市内中央部の様子は、まるで火山が噴火しているようにすさまじい火の勢いでした。
 その時でしたが、専攻科生の従姉妹、雨田豊子お姉さんに出会う事が出来たのです。
私の姿を見た豊子お姉さんは「幸っちゃん、ひどい怪我をしとるんじゃねー。大丈夫」と言うと、私の手をしっかり握りしめてくれましたが、2人ともしばらくの間は涙が止まりませんでした。
豊子お姉さんも頭から顔にかけて血が流れていましたが、それでも気丈に「しっかりしんさいよ。一緒に逃げるんよ」と励ましてくれ、それからは懸命に私の面倒を見てくれました。あの時、豊子お姉さんに会えていなかったら、きっと「私は死んでいただろう」と、つくづく思う事があります。

 私たちが御幸橋を横切った頃でしたが、あまり高くない高度を、またB29爆撃機が飛んできました。
「また爆弾を落とされる!」と思うと怖くて、みんな建物疎開の草むらに飛び込んで伏せていました。しばらくすると飛び去って行ったので、ホッとしました。周りの家は火災こそ起きていませんでしたが、屋根瓦が飛んだり傾いたりして人影が見えず。妙に静かだった事が思い出されます。

 生徒の中には私いがいにも怪我人が沢山いたので、神田神社に行く途中に共済病院(現在の県病院)に寄って治療を受ける事になりましたが、病院の内外は火傷や怪我人であふれ、いつになったら治療が受けられるのか、と不安でした。
かなり長時間待たされて、ようやく私の順番がきて、男性の医師の治療を受けましたが、とにかく背中やお尻に傷口に触られると「チカチカ」して痛かったです。傷口がどうなっているのか、どのような治療がされたのかは背部ですから分かりませんでしたが、包帯では間に合わないと言われて腕を吊る三角巾三枚で身体をぐるぐる巻きにされたので、大変な怪我をしているのだ、ということは分かりました。
しかし、治療が終わったといっても背中に巻いた三角巾が傷口を擦って痛いし、右足の火傷の痛みも治まらないのです。
それに裸足でしたから、8月の太陽に照りつけられたアスファルト道路を歩くたびに足の裏が焦げ付くのではないか、と思える程熱く、辛かったです。それでも従姉妹の雨田豊子さんらに助けられて、12時過ぎには目的の神田神社にたどり着きました。
 境内には広電関係の人や家政女学校の生徒をはじめ、多くの避難者で埋まっていました。私たちが到着したら早速白エプロン掛けの夫人達が来られてムスビを一個ずつ配ってくれました。昨夕から何一つ食べていなかったので早速食べたのですが、妙に「ジャリ、ジャリ」した口触りでした。
 
 避難場所の神田神社に辿り着いてからも大変でした。境内には木陰になるものがないので、みんな太陽に照りつけられる地面に座ったり、横になっておられました。
私は、お尻の方まで怪我をしていたので座る事も出来ず、しばらくは地面に伏せっていると、今度は太陽が背中の傷を焼き付けるように照りつけて、痛くて痛くてたまらなくなったので立ってみました。今度は右足の傷が痛みました。昨夜から水を一滴も飲んでいなかったので喉もヒリヒリして目がくらむようでした。
 そこへ兵隊さんがこられ、避難者に水を飲ませて廻ってきたので「助かった」と思い、「私も飲ませてください」とお願いしたんですが、私を見て「火傷をしている人は水を飲んだらいけん」と言われ、「少しだけでも」とお願いしても飲ませてくれませんでした。後日聞いた話では「火傷を負っている者に水を飲ましたら死ぬるから」と固く禁じられていたそうです。
それでも、真夏の太陽の下で一日中水が飲めない、ということは地獄です。とにかく水が飲みたかったのです。
 境内に防火槽があったので側によってみると、女性が一人、水槽にもたれかかるようにしてすでに亡くなっておられ、側にも一人倒れて亡くなられていたので怖かったですが、それでも水が飲みたい一心で、水槽の側に行ってみました。防火水槽の水は少し青く濁っていて虫も泳いでいましたが、それでも手で虫を払いながら口に入れました。腐っていたのか臭くてとても飲み込む事ができませんでした。
それを見ていた兵隊さんが私の側に来られ「貴方のその身体では何処にも行けませんよ。似島に行けば安心ですから、これから一緒に連れて行ってあげましょう。舟も来て待っていますから」と避難するように何度も何度も勧めに来られました。
境内では、だんだん亡くなられる方もあったので、みんな不安だったのでしょう。兵隊さんの勧めに従って多くの方が連れて行かれましたが、私は豊ちゃんや多くの友達と別れたくないので「似島には行きません」と断りました。
 その時、またB29爆撃機が今度は操縦者の顔が見えるくらいの超低空を大爆音をあげながら飛来して来ました。
「また爆弾を落とされるのはないか!」と本当に怖かった、ということを今でも記憶しています。朝の爆撃の効果を確かめに飛来したのでしょうか。
 背中や足の火傷も痛むし、喉はカラカラ。でも水は飲ましてもらえないし、この先自分はどうなるのだろうか、と不安でした。

 もう、夕方になってからでしたが、神田神社に来ておられた山崎先生、高木先生達が相談され、「このまま神田神社にいたら夜が危険だから、広電が避難場所に決めている五日市の実践女学校へ移動しよう」と決められたようでした。
 神田神社から望む広島市内の黒煙と炎は、朝よりも外側に広がったように見えたので、本当に行けるのだろうか、と思いました。そろって出立した広電関係者は30名か40名であったと思いますが、もう夕方の6時頃でした。
電車通りを御幸橋、広電前、鷹野橋を通って左折し、庚午方向に向かうコースを通ったと思います。
私たちが広電本社前あたりを通過した時刻には、会社の周りの民家にも火が廻っていたようでしたし、日赤あたりからは無惨な死体が道路脇に積み上げられているのが目につくようになりました。背中の傷も足の火傷も痛み、もう歩けそうにない。やがて私も「この死体のようになるのだろう」という不吉な気持ちが頭から離れませんでした。鷹野橋を左折した頃には、道路脇だけでなく、火の中を進むにつれて路上にも死体が横たわっているようになりました。その死体につまずいたり、思わず踏みつけそうになりながらの行進でしたが、中にはまだ死にきれず、私たちの気配を感じられたのか「助けて…ください」と弱々しく訴えられる方もおられました。そんな人の上に、黒こげに焼けた電柱がバターンと倒れかかり、火の粉を舞い上げていました。

 道路脇の家の余燻はまだまだ盛んでしたから熱風で顔が熱く、吹き付ける煙が目にしみ、息をするのも苦しい。背中の傷も、足の火傷も痛むし、そのうえ裸足での行進でしたから、とうとう我慢しきれなくなって、無惨に横たわっている死体の側にしゃがみ込み
 「苦しいよー。もう駄目!私は死んでもいいから、豊ちゃんは早く逃げてー」
と何度も叫んでいました。すると豊子姉さんは
 「もう少しじゃけ頑張りんさいよ。みんな怪我をしとるんじゃけぇね。頑張らにゃいけんよ」
と私を励ましながら、学友達と両脇から私を抱え、引きずるようにして進みました。まわりでは、まだ「助けてください。水、水、水」と狂乱の叫びがする中ので行進でしたから、もう本当に死んでも良い、と思いましたね。
 こうして、ようやく火中を潜り抜けて庚午あたりに辿り着いた時、幸運にも兵隊さんのトラックが通りかかり、誰かがお願いしたのでしょう。兵隊さんはトラックを停めてくれ、私たち30人あまりの一行を乗せ、実践女学校に一番近い2号線まで送ってくれましたが、疲れきっていた時だけに本当に助かりました。トラックから降りてからも、まだ豊ちゃんら学友の助けを借りて、ようやく実践女学校にたどり着いたのは、もう真夜中だったと思います。


 実践女学校に着いてみると、停電していましたが、避難所になっていた講堂の中には御座が敷き詰められていて蝋燭が灯され、すでに多くの怪我人が寝かされていました。私がその怪我人の間に寝かされたまでは記憶にあるのですが、その後は気を失っていたようです。遠くの方で「幸っちゃん、幸っちゃん」と私を呼んでいる声が聞こえるような気がしました。ふと目を開いてみたら、心配そうな友人達の目が私の脳裏に飛び込んできました。その時「ああ、私はまだ生きているんだ」と、つくづく思いました。

 私は講堂に着いて横になると、急に「腹が痛い」と行って苦しみ出し、気を失ってしまったそうです。すぐ、校舎の方に駐屯されていた軍医さんに診察してもらうと、急性盲腸炎だと分かり、注射を打って応急措置がされ、しばらくして私が気づいた、とのことでした。朝の点呼の時の腹痛もその症状が出ていたのでしょう。腹痛が治まると急にトイレに行きたくなりましたが、考えてみると昨夜から一回も行っていませんでした。でも、立ち上がろうとしても。、右足が痛くて立ち上がれませんでした。それを見ていた広兼さんという男子の運転手さんが私を背負い、講堂からかなり離れていたトイレに連れて行ってくれました。その後も人の背を借りてのトイレ通いでした。

 ようやく落ち着き、隣に寝かされている人を見たら、全身火傷で顔は腫れ上がり、服はボロボロ、初めは誰か見分けがつきませんでしたが、「二年生の藤岡さんだ」と、私には分かりました。その時は、もうほとんど意識がないようで、かすかな声で「水、水、水を…」と、欲しがられていましたが、唇が腫れ上がっていて水が喉を通らない様子でした。そればかりか。鼻や耳の穴から小さなウジ虫が這い出してくるようになり、学友達がそれを一匹ずつ取っておられたのが、今も目に浮かびます。一日が二日後だった思いますが、とうとう学友たちに見送られながら天国へ旅立たれました。私が伏せっている横で亡くなられたのですから、とっても悲しく、明日は「我が身か」との思いでした。
 新たな被爆者が次々と運び込まれ、同時に何人もの方が亡くなられたと聞いておりました。亡くなられると、元気な方が死体を裏山へ運んで行き「火をつけて帰って来た」と話されているのを耳にしました。いくら戦争中とはいえ、ようやく14、15才になった子供達が、良くそのような事ができたなー、と今では思っています。
 私の背中には多くのガラス片が刺さっていて上向きに寝れないのでうつぶせになって寝ていましたが、ずっとうつ伏せているのもつらいですよ。寝返りしようと、少し身体を動かすと背中がチクチクします。軍医さんに、毎日のようにピンセットで背中に刺さっているガラス片を2~3片ずつ取り出してもらいましたが。引き抜かれるので、とても痛かったです。
 その後も米軍機の来襲を告げる警戒警報や空襲警報におびえながら、固いゴザにうつ伏せたままの実践女学校での生活が続きましたが、次々に逝く友達を見送りながらの不安な毎日でした。
当時、寝ている私に「食べなさいよ」と言ってくださった桃の実の味!夏がくると、今でもそのみずみずしく、美味しかった味を思い出します。

そんな不安な日々を送っていた8月14日のお昼頃だったと思いますが、突然母と姉、弟、妹の4人が実践女学校に現れ、私に声をかけてきた時には驚きましたね。私は嬉しさに、しばらくは母や姉達の手をしっかり握って嗚咽が止まりませんでした。
後日、母から聞かされた話では、当時父は愛媛県宇和島の海軍基地に出征中で、その留守を預かる母として「大事な娘の安否が分からないでは父に申し訳がない。広島に出た時に爆撃を受けて死ぬるのなら家族一緒に死のう」と決意し、暗いうちに三次から芸備線に乗って広島に出たそうでした。着いた広島駅から見えたのは、まったくの焼け野原で、そこには県内外から動員された救援者が活動されていたけれど、電車は動いてなかったそうです。そこで母たちは徒歩で電車路を辿り、千田町の広電を訪ね、私が実践女学校に収容されていることを聞いて四苦八苦しながらようやく来た、ともことでした。本当に「母親とは強く、有り難いものだなー」とつくづく思いました。
母は私の様子を見て「三次に連れて帰って治療させたい」と宗藤校長に申し出たようで、校長もやむなく許可されたのでしょう。早速私は、校舎の方に駐屯されていた兵隊さんの担架に乗せられて、国鉄の五日市駅まで送ってもらい、母や姉に助けられながら広島駅に着きました。構内では不思議なほど蠅が飛び変わっていたように記憶しています。
 広島駅から乗り込んだ芸備線は超満員で、そのうえ座席シートが取り外されていたので、座る事もできない状態でしたが、幸いにも私の様子をみていた車掌さんがシートを床に外してくれ、私にも「伏せているように」と勧めてくれました。他の乗客の方にはご迷惑をおかけすることになりましたが、私にとっては本当に親切な車掌さんに巡り会え、母も姉も何度も何度も「有り難うございます」とお礼を言っていました。

 三次駅に着いたのはもう薄暗くなり始めかけた頃でしたが、当時は三次駅に帰ってくる被爆者のために担架を準備した「ボランティア」の方が待機されていました。三次駅から歩いて一時間あまりかかる粟屋村まで「大丈夫か」と声をかけてくださりながら、暗くなった夜の路を実家まで送り届けてくれましたが、家に帰り着いたのはもう10時頃だったでしょう。
 家では祖父母が待っていてくれて、私を抱きかかえながら「よく帰って来てくれた」と涙を流し、喜んでくれました。母はすぐ湯を沸かし、私を裸にして熱いお湯で絞った手拭いで傷口を避けながら丁寧に身体を拭いてくれましたが、8月6日から14日まで顔も洗えませんでしたし、下着も出欠した血が乾いてカチカチになっていたほどでしたから、母はたらいのお湯を何度もかえながら身体を拭き清めてくれました。
それから、久しぶりに田舎の夕食を堪能した後は、何もかも忘れ、落ち込むように寝入ったと思います。


 三次に帰った翌日から、母と末弟に励まされながら片道一時間あまりの山道を、慣れぬ松葉杖をついての病院通いが始まりました。
その病院は河野という田舎の小さな医院でしたが、すでに別棟には広島で被爆された患者の方が10名あまり入院されていました。後日聞いた話では、火傷のケロイドを残さない名医だった、という話でした。病院へ行く山道は50センチくらいの狭い道でしたが、途中で2回も3回も蛇のお出迎えを受けながらの通院でした。

 8月15日、病院から帰った日の正午に「日本は降伏する」という天皇陛下の玉音放送があったそうです。このラジオ放送を聞いた祖父母や母が、頭を垂れ、身体をふるわしながら泣いていた姿が今でも目に浮かびます。
「日本は神国だから、最後には神風が吹いて絶対に勝つ」という教育や宣伝がされ、最後は本土決戦、一億玉砕と言われていましたから、この玉音放送を耳にした当時の日本国民はみんな驚き、悔しさに泣いていました。私も信じられず悔しいと思いましたが、「もう、広島で受けたような恐ろしい事は起きないのだ」と思うとホッとする思いもありました。

 母は、病院での治療とあわせて「火傷や傷口の回復に効く」という毒だみ草やおおばこなどの山野草採りに駆け回り、洗って陰干しにしては煎じて出し、せっせと私に飲ませてくれました。また、火傷の傷によく効く、と言ってはおおばこの葉を練り潰し、その青汁の出るものを足の甲の傷口に貼付けてくれたりして、とにかく治療に効く、というものは何でも務めてくれました。
また、当時は夏休み中で、一年生であった末弟が私の背中の傷を「一つ」「二つ」「三つ」と数えながら、最後は「百十四」「百十四」と言っていました。これは母が弟に数の数え方を学習させていたためであったそうで、今にして思えば懐かしい思い出ですよ。

 河野医院の治療も良かったのでしょうが、なんといっても娘のために母が本当に命がけで一生懸命に尽くしてくれたおかげで、背中の傷口も足の甲の火傷もどんどん回復し、松葉杖なしに歩行出来るようになったときは嬉しかったです。二ヶ月前、息も絶え絶えの姿で古里に帰って来たことが、まるで嘘のような気分でした。


 原爆で受けた背中の傷口も、右足甲の火傷の傷の治療も「もうよかろう」と言われ、体力も回復してきたら、当然。広島電鉄家政女学校へ復帰するものと思っていました。
 たしか、昭和20年の10月末頃だったと思いますが、母に見送られて芸備線に乗り、新しい生活の一歩を踏み出す事になりました。
広島駅に降り立って目にした広島市内はまったくの焼け野原で、特に目についたのは中国新聞社のビルや福屋のビルぐらいでしたが、それでも焼け跡には仮小屋が建っていて人が住み始めているような気配でした。
 まだ広島駅前からの電車の運行が再開されていなかったような気がしたので、焼け跡の中を歩いて千田町の広電車庫まで行ったように記憶しています。広電本社や車庫内はまだ再建中でしたが、幸いにも中田監督さんにお会いすることが出来たので「元気になったので帰って来ました」と報告したところ「もう、家政女学校は廃校になった」と聞かされガッカリしました。
「どうしようか」と思ったのですが、せっかく広島に出て来たのですから「働くところはありませんか」とお願いしたところ「電話しておくから、宮島線に行ってみなさい」と言われ、祈るような気持ちで己斐の宮島線の事務所まで行きました。事務所で理由を説明したところ、すぐ乗務服を出してきてくれて「明日から乗務してくれ」と言われて、己斐駅近くにあった女子寮へ案内してくれました。
寮には12~13人の女子車掌さんが入寮されていましたが、ほとんどの方が知った仲でしたから、すぐ打ち解けて働く事ができました。

 己斐の女子寮は、私が入った2~3ヶ月後には廃止され、その後は楽々園の中にあった建物の二階に移りましたが、広島市内も宮島沿線も、だんだんと活気を取り戻し、戦争の心配もなくていたので、家政女学校当時に比べると本当に楽しい時代でした。今現在は、楽々園の敷地も南側は埋め立てられ、公務員住宅が建っていますが、当時は遠浅の海水浴場でしたから、夏には仕事が終わった後、みんなと一緒によく海水浴をしたものです。
 それから、今では考えられないでしょうが、当時は「靴がない」「買えない」時代でしたから、下駄を履いて「切符のない方はございませんか」と車掌業務をしていたんですよ。終戦後の15才から16才の少女時代でしたが、楽しい思い出です。
 しかし、10名あまりおられた女子車掌さんが次々と退職されていき、昭和22年頃になると女子車掌は片岡タカエさんと私の2人だけになってしまいました。母は昔気質の人ですから、多くの男子乗務員の中に女子車掌が2人だけ、ということを気にかけて「早く帰って来い」と言い出したのです。そこで片岡さんとも相談し、一緒に退職することにしましたが、思えば波乱の広電時代であったと思います。それからまた、古里、高田郡粟屋村での家族の愛情に包まれた暮らしが始まりました。


 田舎に帰って家で暮らしていると、「若いうちに勉強だけはしておきたい」と思うようになりました。広電家政女学校のように働きながら勉強ができるところはないか、と探していたところ、紹介してくださる方があって、昭和23年の4月から、兵庫県の姫路市にあった「東洋紡績株式会社」に務める事にしました。

 東洋紡績は大きな会社でしたから、女子寮だけでも同年輩の方が1,000人以上も入居されていましたが、私の身分は「東洋紡績姫路高等実務学校家政部専攻科」という、広電家政女学校専攻科のように働きながら勉強ができるところでした。学生身分証があれば、もちろん鉄道運賃も学生割引でした。
17、18才頃の若い人たちは、全国各地から募集されてきた人たちでしたから、広島市での被爆の実情については、ほとんどの方が知っておられなかったようでした。広島市にはピカドンという毒のある爆弾が落とされて75年間は草木も生えないという噂が信じられていた時代でした。
寮の風呂ですから、みんなが次々と入浴してこられ、私の背中をみた人たちが、驚いたような顔をされて顔を集めひそひそ話をされていました。そのうちの一人が私のそばに来て「背中の傷はどうして出来たの」と聞かれました。私は、何気なく「広島市で原爆にあった時に受けた傷です」と説明したところ、側で聞いていた人たちが驚いたような顔をされて「早く逃げないとピカドンの毒がうつる」と言って風呂から出ていかれました。そんな時「なんでこんな怪我をしてしまったのか。戦争さえなければ」と戦争を恨み、原爆を恨み、泣き、苦しみながら一年ぐらいは人に隠れるようにして入浴しました。
 東洋紡に入社して一年もすると友人も沢山でき、誰もなにも言う人はいなくなりましたが、被爆で受けた心の傷は消える事はありませんでした。
入浴したとき、大鏡に映る背中を見ると、戦争がなかったらこのような怪我もしなかったのに、たくさんの友人を失うこともなかったのに、と家政女学校時代の楽しかったこと、苦しかったこと、そして戦後の辛く悲しかったことが走馬灯のように頭の中に浮かんできます。

 私は昭和28年に東洋紡を退社して広島に帰ってきました。
当時、銭湯に入った時にも「あんた、背中は原爆で怪我をしたの。何処で被爆をしたの。私も原爆で怪我をしたのよ」という話が出ましたが、広島では背中の傷でつらい思いをすることはありませんでした。しかし、旅行に行って温泉に入ると、またまた「背中の傷は原爆で受けた傷か」と必ず聞かれました。それもそうですよね。私の背中には114個ものガラス片が刺さっていたのですから。若い時のように恥ずかしいとは思わなくなりました。しかし、その後、寝返りをすると時々、腰のあたりがチク、チクと痛むことがありました。
昭和58年に。バイクに乗って信号待ちをしていた時、車に追突されて大怪我をし、三篠の池田外科に入院していた時に2個のガラス片が摘出されました。その1個は幅が21mm、高さが11mmもの大きさでした。
被爆して38年間も体内に残っていた、思いがけない大きなガラス片でした。
このガラス片は原爆被災の実相を訴える証拠として原爆資料館に寄贈しました。今でもまだ、体内にはいくつかのガラス片が残っているそうです。
今は、もう昔のようにチカ、チカ感じることもないので手術もしませんが、何かの拍子に体内を移動することがあり、その時に血管や臓器を破損する危険性もあるとのことでした。

 被爆後、60年という永い年月が経ちましたが、私が受けた身体の傷も、そして心の傷も、けっして消える事はありませんが、このような戦争で受けた傷は、結局、誰も責任をとってくれません。
 原爆戦争だけでなく、戦争は絶対にいけません。
 全世界から戦争が一日も早くなくなり、平和であって欲しい、と今は祈ります。そして「皇国少女」の私たちが命がけで護ってきた「広島の電車」が、市民の足として一層発展されることを願い、終わりといたします。

幸子さんの体験談(手紙):増野幸子

小西さんの体験を綴ったもの、8月6日からの話。

増野幸子さんの体験記(手紙)

 昭和二十年八月五日、日曜日。
私は午後の勤務で、しかも最後電車の運転をしていました。
夜はこれまでにない程空襲が激しくて度々停電もする、飛行機B29は騒音を出しながら何度も広島の空を飛んでくる。
「サイレン」は鳴り響く。何処を見ても暗闇だ。
車掌さんは、四月に入学したばかりの一年生だし『怖い怖い』と泣き出す。
私もどうすることもできない、ただ『早々と送電してくれたらいいのに』暗い電車の中で二人きり、気味が悪く本当に淋しかった。
やっと電気がついたと思い電車を走らす。でも、またすぐ停電する。
普通なら遅くても午後十一時を過ぎる事はないのに、五日の夜は本社に帰ったのが真夜中午前一時を過ぎていた。
それから寮に帰ったのは二時半です。


 六日の月曜日は、また早出勤務のため五時には起床しなければいけないので、床に入り早々に寝ようと思っても、
夜の空襲の恐怖で眠れなかった。
朝、起床の「ベル」が鳴る。出勤の支度をして点呼に出た。何故かそのときに激しく腹痛がしたので、六日の早出は欠勤して、皆実町の寮で休んでおりました。
 あの八時十五分、私は熟睡していたのか何があったのか分からない。でも。何かで叩かれるような衝撃を受けました。
あれ…と思ったとき、天井が無い。空は薄暗く、それに埃がすごく舞い上がり、私の手も埃で汚れている。
なにがなんだか分からない。
でも、いつの間にか食堂の前の広場に出ていた。そこには、他の寮の人七・八人がワイワイ騒ぎ出し『爆弾だ、爆弾だ』と「パニック」状態になっていた。
そのとき、何故か足の甲が熱いので『あれっ…』と思い足を見た。すると、あっという間に大きな水ぶくれになった。
『熱い、早く冷やしたい、でも冷やすところが無い』と思った時にふと思いついたのが、寮から出たところに京橋川が流れているので、急いで道路に出た。
そこで、私が目にしたものは、一瞬お化けかと思った。
顔は大きく腫れ、来ている服は「ボロボロ」、手の皮膚は「ズル」とぶらさがり、まるで海草の「ワカメ」を両手にぶら下げているようで、『熱い熱い助けて!』とよろよろと歩いている人や怪我をして血が吹き出して、泣きながら、次々と歩いている。
私も早く川に入らなければ熱くてたまらない。道路の横にある石段を下り、膝から舌を水に入れた。
私の後から次々と、火傷をした人が川に入って行くと。『あれ!』と思った時には、水の中に姿が消えた。
また一人、また一人と水の中に消えた。
その時中心部は見渡す限り真っ黒い煙が空高く前上がり、その間からは真っ赤な炎が吹き出している。
私は、寮に帰ってみなければと思った時に、背中に生ぬるいものが流れる。
なぜ…と思い側にいた人に背中をみてもらった。すると、『わあ!すごい背中は血だらけよ!』と言われたので、振り返り足をみた。
すると足にも血が流れて真っ赤になっていた。
思わず私は『お母さんお母さん』と『助けて!』と大声で叫んだ。
そして石段を上り寮の前に帰ろうとした時、その寮がぐしゃぐしゃに崩れていた。
寮の前には朝出勤した人たちや男性の運転手さん達も集まっていた。
私は裸足、それに下着の「シミーズ」と「パンツ」だけしか身につけていないので『どうしよう…』と立っていた。
すると先生が『何をぼんやりしているの!何か着なければ、そのままでは何処にも行けないよ!』と言われた。
でも洋服は部屋の中にあるけれど、寮はぐしゃぐしゃだし、探すと行っても大変だが、幸いに私のいた寮は平屋建てだったので瓦礫の上に這い登った。
素足だから足が痛い、火傷は疼く、背中の傷は「ズキズキ」する、太陽はいやというほど照りつける。隙間を必死で探した。
すると、隙間から黒いものが見えた。
その時広場にいる人から『早く降りてこないと学校も焼けてるし寮にも火が移るよ!』『早く降りてこいや!』と男の人の声も聞こえた。
黒いものは確かに乗務服だ。取り出そうと必死で引っ張ったが、「ガレキ」に引っかかってなかなか取り出せない。
素足だし、足が痛い。火傷は「うずく」。背中は「チクチク」する。
またその時に『早く、早く』と叫ぶ声がした。やっと洋服を取り出す事が出来たので、脇に降ろしてやっとの思いで広場に降りた。
その時寮にも火が迫ってくる。私はすぐ「ズボン」をはき、上着は両肩に掛けた。その時には寮も火が燃え移って来た。
 先生が『皆さん早く外に出てください』と言われ、道路にやっと出た時には、あっと言う間に寮が「バリバリ」大きな音を立てて燃え出した。
みんな悲し沿いに、大きなため息をつきながら『ああ悔しい悔しい』といい泣きました。
それから先生が『市内には行けないので宇品の方に避難しよう』と、寮を後にしました。
その時、私の従姉妹と出会いました。
私の側に来て、『幸っちゃん大丈夫だったの!? でも、ひどい怪我をしたんじゃね』そういう豊ちゃんも頭に怪我をして、顔に血が流れていた。
それでも従姉妹の豊ちゃんが『しっかりするんよ、一緒に連れて逃げてあげるから、頑張るんよ』と言いながら宇品の方に行く途中、現在の県病院で治療を受けました。
私の背中には傷がたくさんあるので、包帯ができないからと、大きな三角巾を三枚巻かれました。足の火傷には油のようなものを塗られました。

それから宇品の七丁目まであるくのに、素足だから「アスファルト」が太陽の熱で熱い、それに、豊ちゃんと友達の松永弘笑さんに肩を支えられながら歩くのに、背中の傷は「チクチク」する、足の傷はズキズキ疼く。
やっと宇品の七丁目の神社の広場に避難した。そこには沢山の怪我をした人火傷をした人がおりました。兵隊さんが、水を持って来て皆さんに飲ませて歩いておられました。
私も兵隊さんに『水を下さい』と言いました。
すると兵隊さんが『あなたは火傷をしているから飲んではいけない』と飲ませて貰えなかった。
喉が渇く、でも飲ませては貰えない。その時周りを見渡していたら防火用の水槽が見えたので側に行った。そこには水槽に寄りかかったまま、男の人が死んでいた。側にも死んだ人がいた。
それでも私は水が飲みたいので、水槽の水を飲もうとした。水槽の中には虫がたくさん泳いでいたが、虫を払い手で水をすくい、口に入れた。
でも臭くて飲む事ができなかった。
その時兵隊さんが側に来て『あなたはこれから似島に行きましょう、似島に行けばもう安心ですよ。その体では何処にも行けない』と言われた。
再三来ては、一緒に連れて行ってあげるからと言われたが、私は従姉妹の豊ちゃんがいたので行かなかった。
 避難場所に太陽はいやというほど照りつける。B29は低飛行で私たちの上を何度も飛んでくる。『また爆弾を落とされるのではないか』と本当に怖かった。

 夕方になり、ここにいれば夜が危ないから次の避難所にと、学校から指定されていた実践女学校(現在の鈴が峯高校)に行く事になりました。
私はもう、自分の力では歩く事ができない。豊ちゃんと友達に支えられながら宇品を後にした。
 御幸橋、千田町と中心部の方へ近づくにつれ、死体は散乱している。道路の中には死体が積み重ねられている。死体を思わず踏まなければ、歩く事も出来ない。
まだ生と死をさまよいながら『助けて!水をください』と呻いている、そんな人の上に、黒こげになった電子柱が「バターン」と倒れかかる。
火は全然衰えない。私はもう皆と一緒に歩く事はできない。まるで火の海、まさに生き地獄だ。背中は「チクチク」する、足の火傷は「うずく」炎の熱で顔が暑く煙で目が痛い。
私は死体の側に何度も何度もしゃがみ込み、『私はもう駄目、死んでもいいから放っておいて。早く逃げてよ、早く逃げてよ!』と言った。
豊ちゃんは歩けない私を無理矢理にも引きずるように、熱い火の中を『避難先の五日市の実践女学校まで頑張ろう』と言って、八時間も九時間もかけて連れて歩いてくれた。

 なんとか庚午町に行った時に兵隊さんの「トラック」が来て、私たちを乗せて避難先の場所の近くまで送って頂きました。
そして学校に入った時、中にはゴザが多数敷き詰められていて、そこには火傷をした人怪我をした人たちが寝かされていた。
その時私はお腹が痛くなり、意識がなくなりました。
気がついた時には、私の名前を呼んでいるのが、かすかに聞こえて来た。私の周りには友達がいて『気づいたか!』そして『あんたは、意識がなかったんよ!軍医さんが診察されて、盲腸の痛みだといって注射をされたんだよ』と聞かされました。
それから私は「トイレ」に行きたくなっても、もう一歩も歩く事ができなかった。その時に男性の運転手さんの広兼さんが、背中におぶって連れて行ってくださいました。「トイレ」の時も背中を支えていないと倒れるから、用が済むまで体を支えて頂きました。
その時に下痢をしていました。
それからつれて帰り、私もゴザの上に寝かされました。
私の隣には、友達の藤岡さんが全身大火傷で顔がだれかわからないくらいに腫れていました。ほとんど昏睡状態でした。それに体中にウジ虫が這い、顔には鼻から耳の中からも「ゾロゾロ」這って「ハエ」が多数飛んできておりました。
でも、次の日に、悲しい事には天国へと旅立っていかれました。私の側で友達を失ったことは、本当に残念です。

 講堂の中では、毎日次々と亡くなっていきました。
その亡くなられた死体を、元気な人が担架に乗せて山へ運び『死体に火をつけてから帰って来た』と毎日話を聞かされておりました。
私は講堂に寝かされていても、少し体を動かすと背中が「チリチリ」と痛い、その時兵隊さん…いや、軍医さんが来て治療をして『ああ、「ガラス」の破片がある』と「ピンセット」で引き抜いていた。
毎日二個か三個出てくるのを取ってもらいました。

 八月九日、市内電車が、己斐駅から天満迄の間隔を走るので、従姉妹の豊ちゃんは頭に包帯を巻き付けたまま『運転する人がいないから』と出勤して行きました。
私は八月十四日に田舎から母と姉弟たちが探しに広島に来てくれたので、当時高田郡粟屋村の田舎へ連れて帰って頂きました。
九日間も血で「カチカチ」の下着を着たままだった、顔も一度も洗った事もなかったので、田舎に連れて帰ってもらいやっと母に体を綺麗にしてもらって、やっと下着も着替える事ができて、やっと私は生きて帰る事が出来たのだと、本当に嬉しかった。
もし八月六日、豊ちゃんと出会えていなかったら、私はおそらく生きて帰る事は出来なかったと本当に感謝しております。

 田舎に帰ってからは、毎日山道を一時間も松葉杖をつきながら、母と弟に連れられて病院に行きました。母は火傷や傷が早く良くなるようにと、朝早くから山へ行き、野草を取って来ては煎じて飲ませ、また傷口に塗ったりしてくれました。
時々背中の「ガラス」の破片を「ピンセット」で抜いてくれました。
母が背中の傷を治療する時、小学校一年生の弟が側で傷の数を数えて、『姉ちゃん、百十四個、百十四個』と毎日数えておりました。

 昭和二十三年に兵庫県の紡績会社に就職しました。そして、女子寮に入りました。
当時は女子寮だけでも千人以上はおりました。しかも県外から働きに来た人ばかり、年齢も同年輩の人ばかりです。
一番私がつらい悲しい思いをしたのは、いつも風呂の入った時、皆が私をじろじろ見る、そしてコソコソと話す。私には何を話しているのかが分かる。背中の傷は百十四個もある。
原爆から三年も過ぎていても、あまりにも多いし、まだ生々しい、本当に誰が見ても気味が悪いと思いますが、背中ですから隠す事はできない。
皆さん働きに来ている人は田舎の人ばかりだから、どうした傷だろうかと思っていたのだと思います。
なにかコソコソと話をしている中の一人が、私の側に来て『アンタの背中、どうしたの…』と聞くので、私は『広島で原爆の時に怪我をしたのだ』と行ったら、側にいた人たちが『原爆!あの毒の「ピカドン」か』と
聞いていた人たちが『早く逃げなさいよ、毒が移る』と言って、私の側から誰もいなくなるのです。
何故私はこんなにつらい悲しい思いをしなければならないのか、毎日泣きました。
原爆は、このように私を苦しめました。
この責任は誰が取ってくれるのでしょうか?

昭和の五十八年に、私はバイクに乗っていて事故に遭いました。腰の治療をしている時、ガラスの破片が当り痛いので、外科で二個を手術して取り出し、広島の原爆資料館に寄贈しました。
そして、昭和五十九年に原爆の認定申請書を出しましたが、却下されました。
それから、平成六年にまた特別手当の認定申請書を提出しましたが、却下されました。
私は毎年原爆体験談をいろんなところでお話をさせていただいています。
歯も四十代で全部抜けました。

参考文献
ヒロシマの被爆建造物は語る(広島市公文書館で入手可能)
DVD

最初に見るのに最適な教材だとおもう、わかりやすくまとめてあります

原爆投下の八年後に製作された映画
直後の様子など生々しく詳しく、ロケーションも現地、衣服なども市民からの提供で確実

解説付きで分かりやすい、三分あたりの映像を10本収録

当時の映像そのままの映像、音声英語/字幕。画質悪いが貴重な映像多数

現在との比較を分かりやすく。DVD3枚組、解説つき 

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孫が描いた原爆少女〜49万アクセスを集めたネット漫画〜(中国地方向け/2015.7/24放送)