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原爆に遭った少女の話

第1章 入学


■家族構成■
父・母・弟、姉(長女/広島へ嫁いでいた)、姉(次女/高田郡方面へ嫁いでいた)
私は三女にあたります。
(豊子談)


4コマ目参考文献:ヒロシマをさがそう 原爆を見た建物

■雨田豊子(入学当時)
集合写真より→


■間取は部屋によってちがい、おおよそ六畳の8人部屋(4~6人部屋?)。
押し入れのように壁にはめこむ形でベッドがあり、
一段に二人寝れるよう(つまり二段で四人分)仕切ってある。
ベッドには布をかぶせてカーテンをひけるようにしてある。部屋の真ん中に畳とちゃぶ台。
一番左の部屋が六人寝れるようもう一方の壁にもベッドを作ってあったかと(豊子談)


■寮の部屋割り■
生徒は電車課、バスの自動車課に配属される。それにより部屋割りがされる。


■寮の建物■
木造二階建てで、門にちかい方が「松寮」西側が「竹寮」その間を食堂と浴室の小さな別棟が挟まれている。
裏の方はコンクリでずーーと塀をうまく造ってあるんだけれど、
女ばかりだったからでしょう、男が寮に侵入してきた事があり、
塀の上のところにガラスの壊したのを立てていたことがある(豊子談)

第二章 学校生活


■山崎先生(実際)
集合写真より→


7コマ目引用文献:広島の路面電車65年@広島電鉄株式会社発行


■生徒は、笹口正代先生がデザインしたターバン風の黒い帽子を授業で作り、車内でかぶった。
(昭和19年の)六月には白い鉢巻きに代わった@少女車掌たちの8・6/中国新聞H2.7/14
↓当時の制服参照画像:広島の路面電車65年@広島電鉄株式会社発行
 
■先輩社員(実務指導をしてくれる「師匠」)からは「君」付けで呼ばれる。
■最初は帽子、それからターバン→鉢巻きへと替わって行ったような記憶がある。
襟は実はつけ襟、洗った後窓ガラスに張って乾かしていた。制服は布団の下に敷いて寝押ししていた(豊子談)


■笹口正代先生/裁縫担当の教師(実際)
集合写真より→
 軍歌など唄いながら、みんなで勇ましく登校していました(豊子談)


■古賀昇一先生(33歳)/数学の教師
名門・広島高師府中の教員を七年間勤め、軍国主義教育に疑問を感じて辞職。
広島文理大に入り直し、学資稼ぎのために講師で来ていた(@少女車掌たちの8・6/中国新聞H2.7/14)


■しらみや南金虫には悩まされました。
パンツの縫い目などにびっしり卵を産みつけます。黒いパンツなので白い卵が目立ちました(豊子談)

第三章 恋


■1コマ目:
右が変電所で、左が旧発電所(広島のチンチン電車/P.195)
現在左の建物は白く塗ってありますが、戦中は両方赤レンガだった様子。

絵は実際とちょっと違います。


■ちょうど一週間後、彼から「写真を撮りに行こう」と誘われました。
そんな誘いは私にとって初めてのものでした。
戦争の最中に男女が一緒に外出するなどとんでもなく、寮長さんにはただ「外出する」とだけ言って出ました(豊子談)


■自分の住んでいた粟屋では、女性が男と一緒に歩いていただけで結婚できなくなるという土地柄でもあり、
私の父もそういったことに厳しく、
田舎の祭りにさえ『夜中に女の子がうろちょろするもんじゃあない!』と言って出させてくれないほどでした。

写真館では「兄弟かい?」と聞かれ、私は決まりが悪く俯いていると彼は
「ええ、僕の妹で呉から出て来たので、記念に二人で撮りに来たのです」
とすらすらでまかせを言い驚きました(豊子談)


■なるべく近道を通って寮まで送ってくれましたが、着いた頃にはもう日が暮れていました。
「雨田さん!今までどこに行っていたんですか!」
と寮長さんから大目玉をくらいました。
「近くにいる親戚のところに行っていたんですが、具合が悪いと言い出したので看病していました」
というと、寮母さんも心配してくれて
「それなら泊まって来てもよかったのよ?」と言われてぎょっとしました(豊子談)


■増野幸子…1年年下の従姉妹、三次市粟屋町出身。
旧国民学校を卒業と同時に、吉田町の職業安定所を通じて入校。

第四章 8月6日


■雨田よし江/田舎の幼なじみ(1話1P参照)
両親を肺病で亡くし祖母と同居している。


■広島電気軌道千田町発電所@「広電が走る街 今昔」(p.77)より転載↓


■サキット=サーキットブレイカー
高速で走りすぎるとなんかなる。電車が光る。上の方(当時の電鉄職員さんから聞いた@電車祭り)

■当時の御幸橋@「広電が走る街 今昔」(p.137)より転載↓


■そのとき■
空襲警報はそのとき鳴らなかった。

ウソの警報がその前に鳴っていて、その後解除されていた。
でも、次の飛行機が来てた(B29が雲が二重なので分かる)
滑空飛行でエンジン停めて降りて来た(音が鳴らなかったので)(豊子談)


■我に返ると防空壕の中に避難していた。
御幸橋そばにあったスーパーの裏手の防空壕だと思う(日赤から電鉄側はあまり焼けていなかった)
中はたくさんの人でひしめきあい、泣き声やうめき声、血や汗や焦げたような匂いで満たされていた。
首筋がむず痒かったので触れてみるとべっとりと血がついて
(幼なじみに言われてようやく後頭部に怪我をしていることに気づいた。幼なじみも首から血が出ていて頭を怪我していた)
電車から落ちた時にレールで切ったようだった。兵隊さんが手当してくれた(豊子談)


■外に出ると真っ暗でなにも見えない。
砂埃で前が見えない。
少し時間がたつと見え、辺り一面が火の海だった。家は焼け、黒い煙で空が覆われ、火の海。
広島は三日三晩燃えた。(豊子談)


:: 注意 ::

これから第5章の終わりまで、被爆者のそれなりの絵が出てきます。
そういう描写が苦手な方は注意してください。

絵をネーム時に置き換えた版もあります
(↓こんなかんじ)

そういう絵が苦手な方はこちら
(5章の終わりまでカバーしてあります)













■御幸橋の橋の欄干は行儀よく倒れて、下流側は川に流されたかきれいになくなっていた。
川にはあまり水がなかった(豊子談)

写真:ヒロシマナガサキ原爆写真・絵画集成2巻、惨禍の傷跡(P.22)、1巻(P.11)より→

上空は薄暗く、埃やゴミが舞っていて「なにがあったのか」と思いきや、周りの人たちもまるでお化けのよう。
「どうしよう」とおもう。とても人間の姿ではなく、皮膚はぼろぼろに剥けてぶらさがり、身体全体は皮が剥げて泣いて
「苦しい苦しい」「熱い熱い助けてくれ」と誰もが言っていたがどうすることもできなかった。奇声ばかり(豊子談)


■被爆した広電本社。
原爆により半壊したが消失を免れた社屋。社員160余名が一瞬にして殉職した(「広島のチンチン電車」より)

第五章 翌日


■広島商業実践女学校■
第二避難先は宮島線の五日市(鈴が峰)実践女学校の講堂。
現・鈴が峰女子短大。↓HPより転載



■人は死んで行くが、誰が誰か分からない。
顔が焼けただれて腫れ上がり、人相がわからなくなる、一年生は全然顔しらないし。
親が迎えにきて「だれそれですがいますか」いわれても人相が分からないから答えられない(豊子談)


■看護■
先生が見て回って、死ぬもんがおり、死ぬまでに水をほしがる。
医者の「水飲ましてあげてくれ」は死の宣告「飲ましちゃいけん」も指示
「あーうまかった」「もうひとくちくれ」
末期の水。泣く泣く飲ました。

「水をくれ」:口をやられてない人ははっきり言う。
       口をやられた人は手招きで。
「飲ましてあげてください」と言われ、飲ます。涙がでる。死ぬのだと。(豊子談)


■松永弘笑さん2■
キサ出身の友人松永ヒロエさん(ガンで死亡)
母が舟入病院で看護婦をしていた」「骨を拾いたいからついてきて」
町の中はまだ煙がくすぶっていて石か骨かわからないものがたくさんころがっていて、足の踏み場も無い状態。
防空壕の中で折り重なっている死者を目にすると改めて怖くなった。
福島川の中には人や馬が水ぶくれになって腹を上にして転がっており死臭が漂っていた。
崩れ落ちた病棟の屋根瓦の上に骨が並べてあり、名前もあった。ずらーーーーっと並べてあった。
「この辺?」
焼け野原に瓦が敷いてあって「松永ワイの遺骨」とかいた骨を見つけた。
松永さんは呆然と立っていたが、骨を抱きしめて泣き崩れた。自分も涙がとまらなかった。
「名前があるからこれがお母さんだ」風呂敷に包んで帰った
(補足)電車道が土橋から別れて通っていた、戦争中からあった
    焼け野原に屋根の瓦に骨が並べてあった、8日に行った。

福島川の方に屠殺場があったのだけれど、そこから逃げ出した豚が
福島川の川に腹を上にして沢山浮かんでいた(豊子談)


■野辺送り■
グランドに穴掘って火葬場にして焼いた。
女の子四人で担架に運んで上がって、男の人が油を穴につけて焼いた

体の大きさから、大人・子供はわかる。男・女は骨格の違いから判明する。
名前が書いてあるものがあれば、名前の部分を取っておいて、遺体をまとめて一緒に焼く。
骨がごったになってしまっても、あとで仕分ける。
東洋工業の人は、会社が棺を取り寄せて「これに入れてくれ」と言われたので一人一人棺桶に入れた。
焼却場まではかなり遠くきつい上り坂で、女の子四人で担ぎ上げるのは真夏のことであり随分ときつかった。
みちのりにはさつまいもの段々畑や桃の果樹園があって、桃がたくさん実っていた。
暑いし空腹だったのでつい黙ってもって帰りみんなにもわけてあげた、みずみずしくおいしかった(豊子談)

第六章 父の迎え


■紙屋町付近でのレールの取り替え作業(『ヒロシマの被爆建物は語る』p.149より)↓

第七章 一番電車


■路面電車を待つ人の列(実際)↓

第八章 それから


■左官町~境町経由~土橋間の旧路線は十日市~土橋間を結ぶ新線が開通したため
昭和19年12月26日で廃線とされたものの、そのままで使用されていた。
原爆投下により不通になるが、8月23日には旧線のままで運転を再開する。
横川線左官町~十日市町間は本戦に編入された。
昭和40年4月1日に町名変更により左官町という町名はなくなり、停留所は「本川町」に変更されている。
「広電が走る街 今昔」(長舟友則・著)より


■狩留家の鉄橋が落ちていたために川を歩いて渡りました。
ずぶぬれの私たちの姿を見て、中三田郵便局の方が急いで炊き出しをしてくださり、温かい握り飯をつくってくれました。
親切にしていただいたことを今も忘れる事はありません。

あとがき

この漫画の制作は、祖母から
「お前絵がうまいんじゃけ、ワシが御幸橋の上で見た被爆者の姿を描いてくれ」
と言われたのが切っ掛けで始まりました。

よくよく話を聞いていくと、原爆に遭う前の学生生活、苦しいけれど楽しい乗務、被爆後に通った道筋や体験した事など想像以上に凄く、
『これは一枚絵より漫画にした方が分かりやすいし、多く人の目に触れるんじゃ?』と考えるようになり。
自然、そちらに切り替える事を決めました。
けれど実際に体験したわけでない、その当時何を考えていたのか聞いても曖昧にしか答えてもらえず、そのため一人称で書く事ができずに
しばらくお蔵入りしていました。
具体的には頼まれたのは中学生の頃です。
なんとか祖母の生きているうちに完成してよかった。

2013年8月追記

 八章を追加して、これで祖母の原爆の話は終わりです。
 実際に原爆を体験したわけでもなく、戦争を知っている訳ではないので
 何を描いても嘘になってしまう…と、人物に感情を乗せることが出来ませんでした。
 矢張り原爆の話は被爆者の生の声が一番心に届くものだと思います。
 (原爆資料館Web Siteなどで読む事の出来る体験談や、被爆者の描いた原爆の絵をご覧になってください)
 その被爆者も80歳、90歳と高齢となり、
 子や孫の世代がどうやってその体験や教訓を伝えて行くかが、今後の課題だと思います。

補足エピソード

・制服の襟が実はつけ襟。洗った後窓に貼って乾かしていた。制服は布団の下に寝押し。
・女学生の運転は飛ばしすぎるので四ノッチまでしか出ないようにストッパーをかけられた。
・だんだん食事が貧しくなって行く。ご飯は大豆ばかりになっていった。
・夜仕事で遅くなったとき、よもぎ団子をもらった。
・京橋川へしじみを捕りにみんなで行った(夕食の材料になった)
・宮島へも遊びに行った
・袴を着てマントを羽織った学生さんがひらりと電車に乗る姿が格好よかった(飛び乗れるくらいの速度運転)
  広島工業高校の生徒さん、かすり着物+マント+下駄、防止に油着けてテラテラ
  コウリョウ高校(電停前)学生服+くつ
・電車同士すれ違うときチンチンならして挨拶した
 チン     止まれ 
 チンチン   発車    ←信号のところで鳴らしたり
 チンチンチン 急停車
・女学校の解散、卒業証書はなく反物とすこしの退職金。島根の同級生数人と汽車で帰った。
・10月に実家に帰省。あとになってヨシエさんの家をたずねると21年夏頃病死していた


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