writer:唖咲戒夜さん
category : ZOIDS小説
「う……」
小さなうめき声が聞こえて、レイヴンは浅い眠りから覚醒した。
いつの間にか、眠ってしまっていたのだ。ここ二日の間、ろくに睡眠も食事もとっていなかったので、疲労が蓄積していたらしい。
レイヴンは白くぼやけた視界を振り払った。 それから、室内を見回す。
粗末な机と椅子、ベッドの並んだ室内は狭く、床は薄汚れていた。
元々廃墟だった家なのだから、仕方ないといえばそれまでなのだが、その粗雑な状況には少なからず辟易せざるを得なかった。
何故なら、今、この部屋には病人がいるのだ。
白いシーツを纏い、ベッドに深く沈んだ少女。
苦しそうに息をつき、時折うなされている。かれこれもう、2日は眠り続け、 その身体は熱く火照り、40度近い高熱を出していた。
短い蒼い髪が、汗のせいで頬や額に張り付いている。
レイヴンは、そっと指でそれを払うと、少女…リーゼの額の上にある濡れた布を手に取った。
生温くなった布に眉をしかめ、彼女の額に手を置いて、自分の額の温度と比べる。
(……まだ、高いな)
手の平から伝わる体温は、異常なまでに高い。
レイヴンの整った顔に、苛立ちに似た焦りが浮かんでいた。
布を近くの水桶の中に浸しながら、彼は深い溜息を漏らす。
二日間、ずっと看病してきたのだが、少女の病状は一向に改善される気配がない。
肉体的というよりも、精神的なダメージのせいで、彼女の身体は驚くほど弱くなっていた。相当、ショックを受けたのか……。
レイヴンの脳裏に、紅い髪の男の侮蔑を湛えた笑みが浮かび上がる。
全てを滅ぼすと豪語していた、愚かな。
……ヒルツ。
――あの時、七色の閃光が迸り、全ては灰となって消えた。共和国の首都は完膚なきまでに破壊しつくされ、焦土と化した。
圧倒的な力の差に、敗北を余儀なくされた、あの一瞬。
相手がデススティンガーという、自分一人の力ではどうにもならない相手に、レイヴンは躊躇もなく一人で立ち向かっていった。
深奥で揺れていた黒い焔が、シャドーを失ったことで、我慢の限界をこえて溢れ出していた。シャドーを失う起因ともなったヒルツを、本気で 殺そうと思っていた。
しかし、結果は惨敗。
戦いにさえ、なりはしなかった。
思い出すだけでも、悔しさに全身が震え出しそうなほどの屈辱。
敗北という、二文字は。
「跡形もなく、消し飛べ」
荷電粒子砲の光が、ジェノブレイカーのコックピットから出ていた無防備なレイヴンに、照準を合わせる。
ヒルツは、本気でレイヴンを殺そうとしていた。首都と共に、葬り去ろうと。
そこに現われたのが、蒼いジェノザウラーに乗った、リーゼだった。
何故…とは思ったが、その時のレイヴンには目の前のヒルツのことだけが頭を回っていて、リーゼの行動の意味が分からなかった。
彼女はレイヴンの隣に降り立つと、ヒルツの乗ったデススティンガーを見上げた。
そして、一言。
「僕は……もう、必要ないのか」
感情のない、人形のような硝子の瞳で。
ヒルツの顔色は、毛筋ほども変わることはなかった。ただ、嘲笑めいた色を浮かべ、リーゼに冷たい瞳を向けた。
いらないものは切り捨てると物語る、冷酷な。
他者を下等な生物と言い捨てるヒルツには、長年一緒に行動をしていたはずのリーゼさえ、ただの道具に過ぎなかった。
「そうだな……お前はもう、必要ない」
沈黙の満ちる、破壊された首都の大地。
リーゼの虚ろな双眸が、収束する光を凝視していた。
瞬きさえしないで。
荷電粒子砲の白い閃光が満ちる刹那、レイヴンが動いた。
「何をしている!」
眼前に迫った絶望から逃れようともしないリーゼを一喝し、それでも反応のない身体を抱え込んだ。巨体を横たえたジェノブレイカーのコックピットに彼女を押し込んで、いつもの操作手順とは違った 滅茶苦茶な操縦で、ジェノブレイカーを空へと逃れさせる。
機体は直後に放たれた荷電粒子砲の衝撃の余波を受けて、大きくよろめいたが、それでもなんとか攻撃から逃れることができた。
奇跡としか、言いようのない、出来事だった。
数秒にも満たない時間で、ジェノブレイカーを空へと逃れさせたレイヴン自身にさえ、信じられないほど迅速な行動だったのだ。
先ほどの戦闘で大きなダメージを受けていたジェノブレイカーの機体は、アラーム音が鳴りっぱなしだった。
首都から離れた広大な砂漠地帯に着地した時、機体は限界をこえていたが、レイヴンは自分の後ろに同乗していたリーゼの異変に気付き、 更にジェノブレイカーを発進させていた。
人形のように動かなかったリーゼが、いつの間にか意識を失っていたのだ。その酷い顔色には、レイヴンでさえ言葉が出なかった。
人家の廃墟らしき建物を見つけ、その隣にジェノブレイカーを停止させ、レイヴンは意識のないリーゼを抱きかかえた。
驚くほど、軽い身体。
同年代の少女と比べても、細い。
そして、気付く。
(……震えている)
リーゼの肩も手も、小刻みに震えていた。
閉じた瞳に浮かんでいたものは、多分、涙。
腕の中の存在が、酷く頼りないものに思えた。
勝気な性格の、まるで猫のように自由気ままな存在に見えていたのに。
レイヴンは、自分の心に戸惑いを覚えていた。
室内のベッドにリーゼを横たえ、彼女の顔を見下ろした時、困惑していた。
何故、リーゼを助けたのか。
関係ないはずなのに。
何故?
―――傷の舐め合いなんて、真っ平なんだ。
「ヒルツ…!」
シーツの中で、苦しそうな吐息と共に、ヒルツの名を呼ぶ声がして、レイヴンが我に返った。
リーゼの顔を覗きこむと、薄くではあるが、見開いた眼と視線が合う。
「起きたのか?」
熱に潤んだ少女の瞳が、レイヴンを仰いでいた。
以外と繊細な造りの少女の容貌は、リーゼを余計弱々しいものに見せ、レイヴンは言葉をかける機会を失った。
額に塗れた布を置こうとした時、シーツの中から手が伸ばされ、レイヴンの腕を掴む。
思いがけず、強い力だった。
「……」
束の間の沈黙が、時間を支配していた。
リーゼの手を振り払うこともせず、レイヴンは押し黙っていた。やがて、自分から口を開く。
「…しっかりしろ。俺が、分かるか?」
黒に近い紫の瞳を、リーゼはただ見上げていた。
高熱にうなされるリーゼの掠れた声が、耳に届く。
けれど、それは彼の名ではなく…。
「ヒルツ……どうして……」
少女の双眸は、あの虚ろな色で満たされていた。
絶望と困惑、落胆、憎悪…そして、悲哀。全てが入り混じった、言葉では表現できぬ表情の奥に、 捨てられるのことへの恐怖と寂寥が隠れていることに、レイヴンは気付いていた。
感じたことのあるその感情に気付くことは、彼にとってごく容易なことだった。
「ヒルツ」
ギリっと、リーゼの爪がレイヴンの腕に食い込み、その痛みにレイヴンが目を細める。
リーゼには、レイヴンがヒルツに見えていた。
高熱のせいで、彼女が捉える視界は靄に霞み、レイヴンの顔もよく分からないし、声の違いも分からない。
朦朧とした意識の狭間で、ただ、うわ言のようにヒルツの名を繰り返す。
「僕はもう必要ないのか、ヒルツ」
閑散とした部屋の中に響く、少女の声。
弱々しく震える声音は、少し掠れていた。
「僕はもう、必要ないのか」
繰り返される、響き。
リーゼの手が震えながらも、更に強く爪をたててくる。
「僕を捨てるのか」
リーゼの潤んだ瞳から、銀色の波が溢れ、頬を伝った。
次々に溢れる涙を見て、レイヴンが絶句する。
どう、対応してやればいいのか。
渦巻く感情を制御できなくて、ふと顔を上げて窓に視線を走らせていた。
窓の外は夜の闇に包まれて、彼の髪と同じ漆黒に染まっている。
砂漠地方故に、寒空には驚くほど綺麗で、まるで星の海に見えた。
映る光景と、リーゼの涙が交差して、レイヴンの中で何かが 軋んでいく。
深い場所にあるはずの、黒い焔が…。
『独りは……嫌だ……』
暗闇に溶けた記憶。
両親のまだ暖かい遺骸。冷たくなったシャドー。
また、独りになるのか。
独りに、するのか…。
「僕を……独りにするのか…ニコルのように」
耳に滑りこんできたリーゼの言葉に、何かが弾けた。
見えない傷口から透明な血がとめどなく溢れ、精神に浸透していく。
一度口を開けた心の傷を瞬時に塞ぐことなど、レイヴンにはできなかった。
限界だ……!
「リーゼ、もういい。もう、やめろ」
リーゼの手を強く握り、彼女の瞳から溢れ出す涙を拭う。
少女の心は、あまりにも少年に似ていた。
まるで、心の鏡のように。
朦朧とした意識の中、握られた手の暖かさだけを感じながらも、 レイヴンの声が届いていないのか、リーゼが続ける。
「僕を独りに……」
「もう、やめろ……!!お前は独りじゃない!ここに、俺がいる……!」
堪らなくなって、らしくもなく叫んでいた。
ただ、傍にいるという意味で叫んだつもりだったのだが、それはまるで違う意味の響きを含んでいるように聞こえたかもしれない。
他者の痛みなど分からぬはずの少年が、他者の痛みに同調している。
いつも傍らにいるはずのシャドーを失ったレイヴンの中で、何かが変化し始めているのか。
「レイ……?」
訝しげな声を出すリーゼに、レイヴンが頷く。
「そうだ」
「レイヴン…何故?ヒルツは……?」
僅かに正気の光を灯したリーゼの視線が、室内をさまよいだす。
涙は止まったが、熱に浮かされた意識では、まともに思考を働かすことなどできないだろうに、しきりに 自分の置かれた状況を理解しようとしていた。
そして、ヒルツの姿を捜そうと。
今、リーゼがヒルツのことを考えるのは、あまりに酷だった。
リーゼは、きっと、ヒルツを試したのだ。
一緒に行動していながらも、必要とされていないことを薄々感じていたのだろう。そして、あんな行動に出た。
結果は、今、目の前にある涙の痕。
覚悟はしていたのだろうが、それでもリーゼには辛かったのだろう。
この高熱も、精神的なショックのせいにも思える。
レイヴンは、己のらしくもない優しいと呼べる行動に戸惑いを感じつつも、リーゼの目の上に己の左手を当て、そっと目を閉じさせた。
バンに敗北してからの2年間の間にできた、爪で抉れた傷痕が、リーゼの瞼に触れる。
「ヒルツは、ここにはいない。あの男のことは、何も考えるな」
「レイ…ヴン?お前、本当にレイヴンなのか…?これは…夢?」
「…………」
沈黙を肯定ととったのか、リーゼが肩を震わす。
「ははは……夢だ。夢に、決まってる。レイヴンが、僕に構うなんて……これは、ただの夢さ……」
乾いた笑い声を吐くリーゼの髪を、空いている片方の手で梳いて、レイヴンは静かに言った。
「今は、休め。眠るまで、ずっとここにいるから……」
酷く、優しい声。
意識の向こう側で、冷たく傍観しているもう一人の自分が、こんなものは黒い悪魔と呼ばれた『レイヴン』という存在ではないと、しきりに 自己を否定していた。
しかし、この自分と何処か似た少女に、同じ感情をこれ以上味わって欲しくないのは事実だ。
見ているこちらまで心の傷が開いてしまうほど、リーゼの愁傷に同調していた。
「……はは……夢なのに、変なことが聞こえるや。あのレイヴンが、僕の傍にいるだってさ ……!とうとう、頭までおかしくなっちゃったのかな……」
カラカラに乾いた喉を鳴らして、リーゼが笑う。
それを咎めるわけでもなく、レイヴンはリーゼが眠りにつくまで傍にいると言った通り、その場を動こうとしなかった。
繋いだままの手から、互いの温度が伝わってくる。
「お前は、独りじゃない。誰も、お前を捨てたりしない。だから、今は眠れ」
レイヴンが、寂しげに微笑んだ。
互いの傷痕は、癒されることがないからこそ、強くもあり弱くもあるのだ。
手の平の下で、またリーゼが涙を浮かべていることを、レイヴンは知っていた。
「独り…じゃない………」
茫洋とした呟きは、夢ではなく今この瞬間が現実のものであるのだと、気付いているのかもしれない。
心の傷に浸透していくレイヴンの声に、いつしかリーゼの口元が微笑んでいた。
一人ではないと、証明してくれる言葉。
ずっと、誰かにその言葉をかけて欲しかったのかもしれない。
「……レイヴン」
リーゼの指が、レイヴンの指先に絡んだ。
そっと、遠慮がちに。
「……?」
心持ち少し首を傾げたレイヴンへ、リーゼが小さな声を出し、 彼は瞠目した。
「――――ありがとう」
掠れてはいたが、ちゃんと聞き取れた。
確かに、彼女はそう言ったのだ。
自分に向かって…。
消えることのない傷痕が……。
人並みの優しさなど、とうの昔に失っていたはずなのに……。
心が、疼く。
傷の舐め合いなんて、真っ平なんだ――――
そうだろう?
(どうか…している…)
胸中で悪態をつきながらも、少年は少女が眠りの底に誘われるのを待った。
数分もしないうちに、少女の意識は泥濘の中に沈んでいく。
それでも、少年は少女の傍を離れようとしなかった。
まるで、誓いの言葉を守るかのように。
それは、儀式に似ていた。
子供じみた同情の入り混じった憐れみと、似ているが故に相手を救おうとする優しさ。
紙一重の。
少年は、知っていた。
少女の中にある黒い焔、そして癒されることのない傷痕を。
少年もまた、黒い焔と傷痕を抱えて生きてきたのだから。
互いが似ているからこそ対立し、そして……。
―――この状況が、傷の舐め合い以外に何と呼べる?
リーゼの寝顔を見つめながら、レイヴンは不思議な気分を味わっていた。
きっと、急激な心の変化に、対処しなければならないだろう。
戸惑いと困惑が苛立ちに変わる前に、己の本当の気持ちを知る必要があるだろう。
(しょせんは……俺も、人間ということか)
皮肉めいた自嘲の笑みが、自然と零れる。
人間らしい、普通の、心に。
渦巻く感情の中に、一つの答えがあるのかもしれないと、レイヴンは思っていた。
リーゼに見せた優しさと酷似した、人間ならば誰もが持つ感情の一つ。
怒りだとか憎しみだとか、寂しさとか哀しみとか、そんな負の感情以外の。
子供の頃に欠落してしまった、何か。
失ってしまった、硝子の破片。パズルのワンピース。
その感情が何であるのかを、レイヴンはまだ知らない。