writer:bokuさん
category : ZOIDS小説
夢を見た。
遠い星空の下で誓った約束。
君はいつまでもそのままで、そして俺は……。
「慰問会だと?」
ガーティアン・フォース駐留基地。
ガイロス帝国軍・第一機甲師団長カール・リヒテン・シュバルツは、目を通していた書類から怪訝そうに顔を上げた。
北海の氷にも似た緑の双眸をまともに直視できるのは、限られた人間だけとの評判が帝国・共和国軍双方の兵士たちの間で囁かれるようになって久しい。
そのごく一部であるらしい、ヘリック共和国軍少佐・ロブ・ハーマンは悠然と、
「ここの所、連戦の疲れでみな士気が落ちているだろう。たまには息抜きでもということになってな」
「下らん」予想していたらしい答えに、ハーマンが苦笑する。
「だいたいこの非常時に、呑気な催し物なぞ思いついたのは誰だ」
冷厳な帝国軍大佐の問いに、共和国軍少佐は溜息とともに答えた。
「貴国の皇帝陛下と、わが国の大統領閣下だ」
「……」
両国首脳の心づくしとあっては、断るわけにもいかない。うなりたい気持ちをこらえて、シュバルツは外の景色を眺めて心を落ち着かせようと窓に向き直った。
「言い忘れていたが、慰問会の担当はあいつらでな」
最後の一言をハーマンが強調する。
基地から少し離れた、ゆるやかな崖を背にした土地に器材が所狭しと置かれている。兵士たちにどれを運ぶのか指示を出し、フィーネの淹れるお茶に心和ませ、さぼっているバンに文句をたれているのは・・・・・・。
「……トーマ」
めまいすら覚えて、シュバルツは額に手を当てる。
ハーマンは早々に退散していた。無意識のうちに発していたらしい怒りにさらされるのはごめんと判断したのだろう。
いつからここは、学芸会の会場になったのだ。
慰問会当日。ありあわせの器材をつなげながらも、それなりに仕上がった舞台を眺めて、シュバルツは何度目かの溜息をついた。
「そう仏頂面をするな、大佐。上官がそれでは部下たちが楽しめないだろう」
右隣に座るハーマンがなだめるように笑う。
「わかっている」
ぶっきらぼうに答えたものの、会場のできばえはなかなかのものだった。
惑星Ziの澄んだ星空を背景に、緩やかな崖は人が座ることのできる突き出しがあちこちにできている。それを平らにならして敷物を置き、小さな洞に配した武骨な軍用カンテラの灯と電気照明を上手く組み合わせ、全体がやわらかな光の中に浮かび上がるようになっている。さながら天然のコンサートホールだ。
「いい感じだろ、シュバルツ」
背後の席に座るバンがにこにこしながら話しかけてくる。この青年の、誰に対しても分け隔てのない態度は、少なくともシュバルツには不快ではない。
「バン!兄さんを呼び捨てにするなといっただろう!!」
むきになって立ちあがったのはトーマだ。
「なんだよ、俺はただシュバルツに会場がいい出来だろって話していただけだぞ」
「場所を見つけたのはフィーネさん、器材を運んだのはムンベイ、俺とアーバインとジークが会場の設置だ。お前はただ器材の間で昼寝していただけだろう!」
「へー、高い梁から降りられなくなったのを助けてやったの、誰だよ」
「それとこれとは話が別だっ」
「なにい」
今にも子供じみた口喧嘩が始まりそうになったときだった。
威勢のよい音がふたつ、会場に響き渡った。涙目で頭を抱えるバンとトーマをふんぞり返って睨みつける褐色の肌の美女に、さすがはムンベイさんだと周囲から賞賛の声が上がる。
「まったく、あんたたちは。今日ぐらいおとなしくしようって気にはならないのかい?」
フィーネも何か言ってやりなよと、特徴的な金髪と真紅の瞳の美少女を振り返るが、
「わたし、イモンカイって初めて。楽しみだね、ジーク」
「ぎゅあ」
周囲の騒ぎなどお構いなしにはしゃぐ一人と一匹に、ムンベイはだめだこりゃと呟いて肩をすくめる。
「お、来てたのか。大佐」
飄々とした態度の中にも、いくつもの修羅場を渡り歩いてきた者特有の自信を伺わせる男。アーバインだ。
「あんた反対してたんじゃなかったのか、お祭り騒ぎによ」
シュバルツの左隣にどっかと腰を下ろし、アーバインはからかうようなまなざしを向けてくる。
「こうなったら仕方がないだろう。どんなものか見届けさせてもらうまでだ」
鋭く、緑の双眸を向けて応じるシュバルツに、かたいこと言うなってとバンが笑う。
「芝居を観ていて敵襲に気づかず全滅した、世にも間抜けな部隊なんて言われないようにするからさ。ちっとは肩の力を抜けって、シュバルツ」
「兄さんを呼び捨てにするなというに!!」
「・・・・・・シュバルツ中尉」
兄の一声に、トーマは慌てて敬礼を返す。
「そういうわけだ、今日ぐらいは羽目をはずすのも悪くないだろう」
苦笑する共和国軍少佐に、シュバルツは溜息をついてみせた。
だが。バンの言うとおり、いざ始まってみれば楽しいものだった。
部隊の者たちは、今日ばかりは上官も部下も関係なく、思い思いの場所に座り、次々に披露される仲間の芸に笑い転げたり、冷やかしたりして催しを楽しんでいた。
帝国と共和国の兵士による素人芝居に、ハーマンが大笑いしている。つられてシュバルツも口元をほころばせたぐらいだ。
なかなかのものだな。
慰問会の担当であるバンたちが中心になって、いつの間にやら基地全体の人間を巻き込んで企画を進めていったと聞く。中には出し物の練習に熱を入れすぎて、早朝の点呼に遅刻し大目玉を食った兵士もいるほどだ。そんな彼らの姿を、シュバルツは複雑な思いで見やる。
正体不明の敵の襲撃が、帝国も共和国も関係なく各地で頻発している。それがカーディアン・フォースに在る者たちにどれだけの緊張と不安を強いるのか、前線に立ち指揮をとるシュバルツには痛いほどに伝わってくる。
張り詰めた環境で生きていくことができるほど、人間は強くない。兵士たちがどれだけ笑いに飢えているか、そのような場がどれだけ必要であるかを見た思いだった。
ふと、シュバルツは後ろを振り返った。
弟が笑っている。生まれた国こそ違え、目的を同じくする仲間たちに囲まれて、年齢相応の青年の表情を覗かせている。
こんな日がくるとは思わなかった。帝国と共和国の人間とが並んで座り、肩を叩いて笑い合うなど。
はじめに気づいたことだったが、会場の設置にあたって、トーマは帝国と共和国に
席を分かつことを考えもしなかったらしい。無意識のうちに、弟のなかでは両国間の垣根が取り払われているのだろう。
それはいつか、自分が夢見ていた未来の姿ではなかったか。普段であれば思いもしない感傷的な気分にいささか戸惑いを覚えていると、
「お待たせしました!本日のメイン・イベント」司会役の兵士がにこやかに告げる。
「戦火にある我らが基地に、身の危険を顧みず訪れてくれた可憐な妖精!」
ずいぶんと大袈裟な紹介だ。そんなことをシュバルツが思ったときだった。
「いま両国でも評判の歌姫!シェアラ・リース嬢!」
舞台の空気が軽やかに動いた。そこに現れた姿に、シュバルツの表情が揺れた。
驚きから悲しみへ、過去の痛みに耐えるような表情に。
(シェアラ)
あっけに取られていた兵士たちが、次の瞬間熱狂的な歓声をあげる。左隣のアーバインですら、感嘆の口笛を吹いている。
まだ少女といってもよい年頃の、ほっそりとした女が部隊の中央に立っていた。
きめ細やかな肌、みずみずしい唇、大きく潤んだ瞳は晴れ渡った星空のように深く青い。淡い褐色の髪を引き立たせる色合いのドレスには、胸元の小さな花以外には何の飾りもなかったが、妖精のよう美しさは見る者をひきつけてやまない。
「どうした、大佐」
ハーマンの怪訝そうな声に我に返る。
「美人を見て驚くとは、貴官らしくないな」
「そんなことではない」
似ていた。いや違う。あのときと少しも変わらない彼女が目の前にいる。
しかし、ずいぶんと変わるものだな。ハーマンの呟きが気になったが、詮索をする気にもなれずに、シュバルツは舞台へ向き直った。
と。
宙を舞い、膝の上に落ちたものをシュバルツは手にとった。歌姫の胸元を飾っていた、小さな青い花束。兵士たちの注目が集まり、さらに場が沸き立つ。
この花には見覚えがあった。舞台を振り仰ぐ。歌姫と目が合うと、咲き誇る花にも似たほほえみが少女を彩る。
そんなはずはなかった。彼女が俺の前にいるはずはないのだから。
歌姫が観客へ向き直る。
そして。
星空に響き渡る歌に、シュバルツは過去へと引き寄せられていた。
帰らないきのうに。
あれは……そう、9年も前だ。
士官学校を出たばかりで、自分には何一つ不可能なことはないと信じて疑いもしなかった頃。
「カール。お前が行く道を、私は止めない」
出立の朝、書斎の窓から外を見ていた父の背中。
「軍人は戦うことが義務だ。だがそれは、この国のためだけであってはならない」
晴れがましい日であるはずなのに、なぜあんなことを言ったのだろう。
悲しげな父のまなざしの意味を、やがて俺は知ることになる。
その日、シュバルツは憂鬱な気持ちを抱えて、小さな町の通りを歩いていた。
帝国と共和国の国境沿いに位置する、緑豊かな田舎町。まだ身体になじみのない士官服をもてあます自分は、のどかな風景からは妙に浮き上がっているような気がする。
どうして俺は、こんなところにいるんだろう。
不満でならなかった。同期の友人たちが、激しい戦闘に明け暮れる前線にいるというのに、よりによって戦功の立てようもない場所に飛ばされるとは。
自分はじゅうぶんに戦える。ゾイドだって上手く乗りこなす自信がある。それなのに。
はやる気持ちを抑える青年の端正な顔に翳りが落ちる。午前中の上官との面会を思い出していたのだ。
上官は小人物だった。部下には尊大で、権威にはへつらう。
いずれは軍の中枢に立つかもしれない名家の子息。好印象を与えておけば、もしかしたら。愛想の良い態度の裏に見え隠れする羨望とちっぽけな野心に青年が辟易していることも知らずに、上官は樽のような身体を反り返らせた。
「貴官の家は、ガイロス帝国開闢以来の武門の要、いわば帝室の盾。それにふさわしい働きを期待するぞ」
またか。子供の頃から、幾度も聞かされてきた言葉だ。
家が嫌いなわけではない。両親は尊敬できるし誇りにも思っている。8つ下の弟はまだ遊びたい盛りの子供で、家中を走り回っては婆やの手を焼かせている。
ただすこし古くて、軍人になる者が多い。それだけだ。
だが周囲は、自分がシュバルツの姓を持つことに必要以上にこだわる。卑屈になる者、嫉妬を隠そうともしない者、どう接していいかわからず遠巻きにする者。家名だけが歩き回ることが青年には重い。
執務室を出たシュバルツを、明るい声が呼びとめた。同じ部隊の中でただ一人、気さくに話しかけてくるマックス・ウェーバーという男だ。
「気にすんなよ、あいつの言うことなんか」
つまらないことで叱責を食らって落ち込んでいるとでも思ったのだろう。それよりも、気分転換に町に出てみてはどうかとウェーバーはすすめてくる。
「かわいい女の子に会えるかもしれないぜ」
「……おまえらしいな」
呆れ顔のシュバルツに、黒い目を愉快そうに細めてウェーバーは笑う。
「ここで腐ってるよりはましだろ。貴重な休暇を午前中はつぶされたんだ、息抜きぐらいしてこいって」
半ば強引に送り出され、町を散策してはみたものの、穏やかな天気とは裏腹に気分は晴れない。いいかげん基地へ戻ろうかと思ったとき、シュバルツの緑の双眸がすぐそばの花壇に止まった。
深い青い色の小さな花は、この町のあちこちでよく見かけるものだ。みずみずしいが慎ましやかで、帝都で売られるあでやかな花々とは一線を画している。
何ていう花だろう。もっとよく見ようと近づいたとき、
「もうっ、遅いっ!」
軽やかな風とともに小さな手が腕にからみついた。驚くシュバルツの視界に飛び込んできたのは、晴れ渡った夜空を思わせる深い青い瞳に彩られた繊細な顔だった。
「あんまり遅いから、わたしもう帰ろうと思ったんだよ!」
少女だった。シュバルツよりも一つ二つ年下か、肩までの淡い褐色の髪を風にまかせ、珊瑚の唇を尖らせて怒ったような表情を見せている。返答に窮していると、少女はわずかに顔を近づけてきた。
(話を合わせて。ここから連れ出して)
囁きのなかに不安が混ざる。顔を上げると、少し離れたところから二人の帝国兵がこっちを見ている。どこか気まずそうなのは、シュバルツが士官の格好をしているからだ。さしずめ、嫌がる少女に無理に付き合えと迫っていたところだろう。
現地の人間とのトラブルに上層部は神経を尖らせている。わずかな引き金が、帝国そのものへの反感へ変わることもありえるのだ。すがるような少女のまなざしに、シュバルツは自然に頷いていた。
「待たせてしまってすまな……い、いや、ごめんよ」
夜空の瞳が大きく見開かれ、青年が思わず目を見張ったほどに晴れやかな笑みが広がる。
「ほんとうに、そう思ってるの?」
端から見れば、待ち合わせに送れた相手を責めながらも甘えている少女。あっけに取られている帝国兵たちにくるりと振り返り、にっこりと笑いかける。
「こういうわけなの。だから、ごめんねっ」
さあ、行きましょ。そのままシュバルツの腕をぐいぐいと引いて歩き出す。
何だか、妙なことになってきたな。
いくつもの店が立ち並ぶ通りを抜け、しばらく歩く。ここまで来たならば、さっきの連中も追ってこないだろう。そう思っていると、傍らをあるく少女がくすくすと笑っていることに気がついた。
「軍人さん、お芝居がへた」
「……悪かったな」
事実なのだから仕方ないと思ったが、声には不機嫌そうな響きが含まれていたらしい。
「あっ、ごめんね。言いすぎた」
謝ってはいるものの、少女はどこか楽しげだ。シュバルツの腕から手を離し、正面に立ってぺこりと頭を下げる。
「ありがとう。わたし、シェアラ・リースっていいます」
深い青い瞳が向けられる。わけもなくどきりとした。なんてまっすぐな目で人を見
るのだろう。
「カール・リヒテン・シュバルツ」
次いで、自分らしくもない言葉を口にしていた。
「カールと呼んでくれたら嬉しい。ええと、フロイライン……」
「シェアラでいいよ」
お嬢さん(フロイライン)なんて、わたしの柄じゃないもの。本当によく笑う。
「ほんと、助かった!あいつらしつこいんだもの、町を案内しろって」
「嫌がっていたの、わかったよ」
シェアラの目に悪戯っぽい輝きがひらめく。あっという間に腕が組まれた。
「でも、カールだったらいいかな」
抗う間もなく、シュバルツは少女に引っ張られて町じゅうを歩き回る羽目になっていた。
本当に小さな町だった。数時間もしないうちに、めぼしい場所はまわり終えてしまったぐらいに。けれども、シェアラに導かれて歩く町のさまざまな表情に、シュバルツは今まで町のことをよく知ろうともしていなかったことに気がついた。
「昔はね、もっと賑やかだったんだよ」
並んで腰かけた石段から、無邪気な笑い声を響かせる子供たちを眺めながら、シェアラはぽつりと言った。
「歌の町って言われるぐらい、ここには歌や音楽があふれてた。でも今は、それどころじゃないから。いつ戦場になるか分らないってみんな噂しているもの」
微笑みにかすかに苦く寂しげなものが混じる。少女にそんな顔をさせることがなぜか辛い。気持ちを引き立てようと、シュバルツはすぐそばの花壇の花を指さした。先刻目に留めた、小さな青い花だ。
「俺の住む街では見たことがないんだ。何ていうのか気になってさ」
シェアラの顔に生き生きとした表情がよみがえる。Forget-me-notと、忘れられた言葉で歌うように告げる。
「この星に来たとき、町を作った人たちが植えたの。でも土地が合わないのかな、今じゃここだけにしか咲かないんだって」
「私を忘れないで、か。なんだか詩的な響きだな」
呟くシュバルツに、ロマンチストな軍人さんだねとシェアラが笑う。
「花の意味でもあるんだよ。それにもうひとつはね」言いかけた少女の頬が薄く染まる。
「やめた。言わない」
「そう言われると知りたくなるな」
「だめ、秘密!」
きっぱりと言いきると、シェアラはお礼に自分の家で何かご馳走すると言ってきた。遠慮の言葉を裏切って叛乱の狼煙を上げた胃袋に、若い帝国軍士官は真っ赤になって下を向いた。笑いをこらえながら、少女はすぐそばにある、こぢんまりした店の看板を指さした。
「おねえちゃん!」
酒精と料理の匂いと陽気な笑い声で賑わう場所の扉を開くと、7つぐらいの少女がシェアラに駆け寄ろうとしてシュバルツに気づき、恰幅の良い中年女性のスカートの影に隠れた。談笑していた客立ちが、一瞬静まり返る。
「おかえり、シェアラ。そちらの軍人さんはどうしたんだい?」
怪訝そうないくつものまなざし。帝国軍に対する町の人々の反応としてはもっともだろう。
「カール・リヒテン・シュバルツさん。いやな兵士たちに絡まれているところ、助けてもらったの」
店内に賑わいが戻る。女性のどこか警戒したような表情がなくなり、暖かな笑みが広がる。
「疑ったりしてすまなかったね。あたしはギゼラ、シェアラの叔母さ」
丸太のような手で肩を叩かれ、思わずよろけそうになる。後ろに隠れた幼女に、ギゼラは挨拶をするように促すが、シュバルツを見上げる大きな目から不審の色は消えない。
「セレナ。初めての人に会ったらどうするの。おねえちゃんいつも言ってるでしょ」
妹の傍らに屈んで、シェアラはすこしだけ厳しい表情をする。幼女はしばらく迷っていたが、やがて意を決したように青年の前へ歩いてきた。
「・・・・・・こんにちは」
聞き取りにくいほどの小さな声だ。シュバルツは幼女のまえに屈みこみ、目線を合わせた。
「カールっていうんだ。よろしく、セレナ」
緑の双眸にのぞく優しさを見て取ったのだろう、幼女の顔に無邪気な笑みが浮かぶ。
「うんっ」
「よくできました。ご挨拶は完璧ね」
頭を撫でられ、嬉しそうに姉を見上げるセレナの姿に、帝都にいる弟の面影が重なった。
「おばさん、シュバルツさんに何か出してあげてもいい?」
「もちろんだとも。むさくるしい所だけど、どうぞおあがりよ」
促されるままに、カウンター席の一つに座らされる。
「よお兄さん、シェアラちゃんを助けてくれてありがとな」
店の常連であるらしい酔客たちが、機嫌良くシュバルツに話しかけてくる。
「帝国軍にも、あんたみたいな人はいるんだね。見なおしたよ」
「ほらおじさんたちどいて。邪魔よ」
ひどいなあシェアラちゃん。酔客たちの嘆きをよそに、少女はシュバルツの前に次々と料理を並べていく。
「こんなことでしかお礼できないけど、どんどん食べていってね」
匙を取り、手近にあった煮込み料理を口へ運ぶ。肉と香草のうまみが広がっていく。
「……うまい」
「でしょ?おばさん、口は悪いけど料理は最高なの」
誰が口が悪いって?厨房から顔を出して怒鳴るギゼラの顔は笑っている。
「おいシェアラちゃん、いつものやつ頼むよ」
酔客の一人がそう言うと、周囲から次々に賛同の声が上がる。裾を引く小さな手に下を見ると、シェアラの妹がはにかみながら、姉の歩いていった場所を指し示していた。
何が始まるのだろう。
「帝国の兄さん、あんたいい時に店にきたねえ。シェアラちゃんの歌、聞かなきゃ損だよ」
にこにこする客の表情に、そんなにいいものなのかとシュバルツが少女に向き直ったときだった。
涼やかな歌声が、狭い店の中に響き渡っていく。
懐かしい、それでいて誰も知らない歌に、いつしかシュバルツは引き込まれていた。
たとえばそれは、まだこの惑星が緑滴る大地だったころの記憶。誰も知らない深い海の底でまどろむ人魚が見た夢。遠い星の海を渡ってきた祖先たちの郷愁の想い。
なんて……
歌が終わった。割れんばかりの拍手の中、シェアラが頬を染めて優雅に一礼する。
「どうだい、兄さん。いいだろう」
「ああ」本気でそう思った。
「帝都にだって、あんなきれいな声で歌える人間はいない」
そうだろうなあ。酔客たちの満足そうな表情に、少女がどれだけ大切に思われているかが伺えた。
「いいな」
シュバルツの隣に立っていたセレナがうらやましそうに姉を見ている。
「いい歌だったよ」
話しかけると、幼女は満足げに笑う。どれだけ姉を自慢に思っているかがよくわかる。
「セレナも、おねえちゃんみたいになりたいんだ」
「なれるよ。そうしたら、歌を聴かせてほしい」
うなずくセレナの瞳が輝く。カウンターへ戻ってきたシェアラの姿を見とめて、スカートに飛びついて甘える。
「びっくりしたでしょ、いきなり」
「すばらしかったよ」 もう少し気の利いた言葉を返せないものかと思っていると、
「帝国の軍人さんも、感動のあまり声も出ねえってよ」
酔客たちの悪意のないからかいに、シェアラは照れたように笑う。見ている者たちを明るい気持ちにさせる笑顔だった。
「すっかり引き止めて、悪かったねえ」
満天の星が空を彩った頃。門限が過ぎていることに気づき、慌てて席を立ったシュバルツを、シェアラと家族はすまなそうに店の入り口まで見送ってくれた。
「いえ。こちらこそ、すっかりご馳走になってしまって」
「でもいい食べっぷりだったよ。惚れちまいそうだね」
「もう、おぱさん。食べっぷりで人を判断しないでっ」
仲の良い叔母と姪の会話に、シュバルツの表情が和らぐ。自分では気づいていない青年の優しい笑みに、シェアラがかすかに頬を染める。
「さあさ、もう行かないと。やかましい上官にどやされるよ」
ギゼラに促され、基地へと歩き出したシュバルツを呼びとめる声がした。振り返ると、手を後ろで組んだシェアラが立っていた。傍らにはセレナもいる。
「おやすみ。また、明日ね」
咲き誇る花のような笑顔に、自然と頷いていた。
「ああ。また、明日」
「ばいばい」
無邪気なセレナの声に送られて、シュバルツは基地までの道を駆け出していた。
「お、帰ってきたな」
基地入り口の歩哨所で、行儀悪く椅子に座って雑誌を広げながら、ウェイバーがシュバルツを呼びとめた。
「さっさと部屋に戻って寝ちまえよ。俺の歩哨時間にゃ、門限破りはいないことになってるんだからな」
「すまない」
一言そう言うと、ウェイバーは不思議そうにシュバルツを見る。
「少しは元気が出たみたいだな。何かいいことでもあったのか」
「散歩のおかげだ」
ウェイバーの表情すらおかしい。もったいぶらずに教えろよという声を背に、いつしかシュバルツは笑い出していた。
また明日、か。いい言葉だな。
なぜかは分からなかったけれど、あたたかい気持ちになっていた。
「なあ、お前ほんとに何か隠してないか」
緑の双眸に高揚感の名残をとどめて歩いていくシュバルツを、ウェイバーは怪訝そうに見やる。
「ついこの間まで胃薬が要りそうな顔してた奴が、散歩から帰ってきたと思えばにこにこ顔。おまけに演習でいきなパーフェクトの成績か?信じられねえよ」
「悔しいなら素直にそう言え」
ああ悔しいぜ、俺だってあのときへましなければさあ。地団太を踏む黒髪の青年の声を背に、シュバルツは格納庫の出口に歩みを向ける。
一週間続いた演習も今日で終わりだ。久々の休みだから、またあの店に行けるな。
自然と心が浮き立つ。こら、友達を置いていくなよと追いかけてくるウェイバーになら、店のことを教えてもいいかと思いながら。
「いらっしゃい、カール」
小さな店の扉を開くと、快活な声がシュバルツを出迎えた。人形で遊んでいたセレナが小さな声で姉に続く。演習の成果を問う少女に、返事の代わりにOKサインを出す。明るく笑うと、シェアラは特製料理をふるまうからと言ってくる。
「い、いや……今日はあんまり」
「なあに。まだこの間のスープの失敗にこだわってるの」
料理は修行中なんだから仕方ないでしょ、と頬をふくらませる少女に、人間には向き不向きというものがと言おうとしてやめた。とんでもないことになる予感がしたからだ。
「シェアラ。シュバルツさんに座ってもらいな。立ちっぱなしじゃお疲れだろう」
叔母の言葉にもっともだと頷くと、シェアラは手近な席をすすめて厨房へと戻っていく。
どうやら新しい料理の試食からは逃れられそうもない。自分一人で敵を迎撃しろと言われたほうがまだ容易いかもしれなかった。傍らのセレナと目が合う。
「おねえちゃん、がんばってるから」
無邪気な笑顔に、力なく笑い返すしかなかった。
シェアラは、全身で生きることを謳歌していた。笑うときは笑う。泣くときは泣く。怒るときは怒る。
慎ましさの中にのぞく、地に根をおろして生きる者の強さがある。たちの悪い酔っ払いをモップ一本で鮮やかに撃退した後、照れたように笑う少女など見たこともない。
「ねえ、それから?」
見たこともない帝都の話に、印象的な深い青い瞳が輝く。中央から遠く離れた地方では、生まれた町や村で生涯を終える事だって珍しくはない。この少女にとっては穏やかだが退屈な場所であっただろう。
自分のことを、こんなに話したのもシュバルツには初めてのことだった。実家のこと、家族のこと、幼い日の思い出。弟が生まれたときは嬉しくて、学校から帰ると揺り籠の側について離れようとせず母たちを微苦笑させたこと。内緒で下町に遊びに行ったとき、5つだった弟がついてきてしまって慌てたこと。
「家に帰れって言ったらひどく泣いてさ。結局、一緒に市場を歩き回る羽目になった」
「カールのこと、大好きなんだね。弟さん」目に浮かぶようだとシェアラは笑う。
歌姫になりたいというシェアラの夢を聞いたのは、そんな話の中だった。
「いろいろな村や町を回って、沢山の人たちの前で歌いたい。帝国も共和国も関係なく、わたしの歌を聴いて欲しいんだ」
頬を上気させて語る少女に、必ずなれるよとシュバルツは請けあう。下手なお世辞などではなく、シェアラならきっと実現するだろう。そんな気がしたのだ。
「ふふ、カールで二人目。わたしの夢、真剣に聞いてくれた人」
一人目は子供の頃、この町に避暑に来ていた少年だという。
「その子はニューヘリックシティにおいでって言ってくれたの。すごく大きな街なんでしょ」
「ガイガロスだって負けていない」
子供っぽい対抗心にかられて、シュバルツは言った。
「有名な劇場やホールがいくつもある。皇帝陛下は殊の外音楽がお好きで、評判の音楽家を宮廷に招いて演奏会を開くぐらいなんだ。素晴らしいよ」
「カールも行った事あるの?」
「……いや、噂を聞いただけさ。俺なんかじゃ直接、陛下に謁見できないからね」
余計なことは言いたくなかった。シュバルツ家の者ではなく、ただのカールとしてシェアラの前ではいたい。
「そうだ、カールの夢って何?」何気ないシェアラの問いには驚かされる。
ずっと、軍人になることが当たり前だと思ってきた。何を目的にするかなど、考えたこともなかった。
「手柄を立てること?」
望まない場所に飛ばされた不満も、戦功を立てたいという焦りもいつしか消えていた。つまらないことで悩んでいたのがばかばかしくさえある。
「少し前まではそうだった。でも、今は違うような気がするんだ。うまく言えないけれど」
君は知っているだろうか。何気ない問いが、俺に新鮮な驚きと喜びをもたらしていることを。
「いつかきっと、見つかるよ」
シェアラの微笑みに頷いていた。
その日も、いつもと同じように店の扉を開いた。
いらっしゃい、と振り返ったシェアラの表情にシュバルツは違和感を覚えた。微笑んではいるがどこか寂しげで、眦(まなじり)には光るものがある。問いかけようとしたとき、シェアラが不思議そうに青年を見上げた。
「カール、なんか雰囲気が違うね」
軍帽を被り、手袋をつけただけなのだが。物々しい印象を与えているのだろう。
「そうかな」
「うん、軍人さんみたい」
「……軍人なんだよ」
がっくりと肩を落とすシュバルツに、冗談だってばと朗らかな笑いが返ってくる。
よかった。いつものシェアラだ。
「おやまあ、凛々しいこと」厨房から顔を覗かせたギゼラが感嘆の声をあげる。
「まるで全軍に檄を飛ばす司令官みたいだ。年甲斐もなくときめいちまうねえ」
思わず照れる青年に、シェアラはそんなに急いでどうしたのかと聞いてくる。
「新しいゾイドが到着したんだ。一度見てみたいって言ってただろ?」
帝都から到着した部隊の歓迎式典は午後からだ。空いている時間に誘おうと思ったことを告げると、少女の深い青い瞳が輝く。ギゼラに向かって、すぐに戻るからいいでしょとねだる。
「かまわないけど、子供みたいにはしゃいで、シュバルツさんに迷惑かけるんじゃないよ」
子供じゃないってば、と膨れる仕草がおかしい。笑っている青年を軽く睨むと、シェアラは先に外に出ているからと飛び出していく。続いて店を出ようとしたシュバルツを呼びとめる声がした。ギゼラだ。先ほどとは打って変わった真剣な表情で青年を見ている。
「……言いにくいんだけどね」
思いがけない言葉に女将を見返した。店に立ち寄った帝国兵からいろいろなことを聞いたのだとギゼラは言った。帝都でシュバルツの名が意味するものも。
「あんたはそんな人じゃないと思ってる。けど軽い気持ちなら」
「シェアラは友達です」
短く言い切って、シュバルツは店を出た。ギゼラが何か言いたげにしていたが、それ以上聞くことができなかった。
軽い気持ちなんて、そんなこと考えたこともない。
「どうしたの、元気ないね」
待っていたシェアラが首をかしげる。何でもないと笑って見せると、シュバルツは町外れの平原に見える巨大なシルエットを指差した。
「うわあ」
賑わう人々の中、シェアラは驚きを浮かべて、間近にするセイバータイガーの姿を見上げている。
「話には聞いてたけど……」
「凄いだろ?」
得意げな表情をするシュバルツに、深い青い瞳が向けられた。
「うん!ね、あのゾイド、どこに行くの?」
「ああ、一度うちの基地に置かれてから、南の戦線に」
言いかけてシュバルツはやめた。シェアラの瞳に浮かんだ悲しげな光が気になったからだ。
「あんまりいい話、聞かないものね。南のほう」
辺境の基地へ新たな部隊が配属される理由と、戦線が緊迫した状態にあることは人々の口にものぼっている。音楽のかわりに戦火への不安とささやきだけが満ち溢れるようになった町の姿がシェアラには辛いのだ。
「いつになったら終わるのかな、この戦争」
和平への動きがなかったわけではない。十数年前、共和国の故キャムフォード大統領は、戦争の長期化による両国の疲弊を懸念し、主戦派の反対を押し切って和平条約の締結を皇帝に提案したほどだ。
だがそれは、実現直前になって潰えた。大統領の急死という、半ば予測された結末によって。
「あのゾイドも、痛い、辛い思いをしなくちゃならないのに」
「ゾイドは戦争のためだけの道具じゃない。シェアラも知ってるだろ?」
「うん、グスタフとかいるものね」
「嫌なことだけれど、軍の上層部にはゾイドを道具としか見ない奴もいる。でも違うんだ」
戦争は人間の勝手な都合だ。だがシェアラには、ゾイドをその象徴として見て欲しくはない。シュバルツの思いが伝わったのか、少女の顔にすこしだけ明るさが戻る。
「男の人って、ゾイドのことになると違うんだね」
君にも伝えられたらいいのに、共に荒野を駆けていくときのあの解放感を。わたしもゾイドに乗れるかなと聞いてきたシェアラに、シュバルツは笑顔を返していた。
「ああ、きっと。快く承諾してくれるさ」
「返事してくれるの?」
「生きているからね、機嫌が良かったり悪かったりもする。俺たちと変わらない」
他のゾイドに乗ったために愛機が機嫌を損ね、なだめるのに苦労した男の話をすると、シェアラはくすくすと笑い出した。臍を曲げるゾイドに、頼むから動いてくれと懇願するシュバルツの姿を想像したという。
「浮気できないね、ゾイド乗りって」
「……そうだな」
何だか一本取られたような気がして、二人で顔を見合わせて笑ったときだ。
「こんな所で何してるんだ。カール・リヒテン・シュバルツ」
悪意に満ちた声。とっさにシェアラをかばって振り返ったシュバルツの前に立っていたのは、同じ部隊の連中だ。普段から何かにつけては絡んできていたが、相手にすらしていなかった。
「昼間から女連れか。さすが名家のご子息は俺たちとは扱いが違うぜ」
「素直にうらやましいって言ったらどう?」
シェアラの容赦のない言葉に、士官たちがぐっとつまる。
「大の男が三人も揃って、その程度の言いがかり?カール、こんな人たち相手にすることないよ」
「売女は黙ってろ。だいたい俺たち帝国軍士官にまとわりつくなんざ、所詮」
続けられた言葉に、シェアラの頬が屈辱に染まる。青い瞳に浮かんだ涙を見たとき、シュバルツの意識が白熱した。
「何をする!」
顔めがけて叩きつけられた手袋の意味を悟った男が、怒りもあらわに詰め寄ってくる。
「貴様は彼女を侮辱した。十分な理由だろう」
「はっ、こんな女」
続きは最後まで言わせなかった。二度と、シェアラにあんな汚い言葉を聞かせたくはない。
「シュバルツ、貴様」地面に沈む仲間の姿に、他の二人が激昂する。
「カール、やめてっ!」
シェアラの制止も耳に入らなかった。そのあと覚えているのは……
上官は、これ以上はないぐらいにうろたえていた。
「いったい何を考えているのだ、シュバルツ少尉」
切れた唇が痛む。もっとも、あの三人には自分が受けた以上の礼をたっぷり返してやったのだから、まだいいだろう。
「町中で士官どうし喧嘩騒ぎ、しかも女がらみとは。仮にも君はシュバルツ家の者なのだぞ。それを」
「シュバルツの名は関係ないッ!」
執務室に響き渡った声に、上官が目と口を丸くする。
「俺はシェアラの友達として、奴らに我慢がならなかっただけだ!」
それをよくも。
上官の顔が赤くなり、次いで青くなった。自分を見据える緑の双眸から目をそらし、かろうじて体面を取り繕った声で告げる。
「き、君はすこし頭を冷やすことが必要であるようだ。シュバルツ少尉」
それから五日間の独房入りを命じられた。
独房での生活そのものは苦ではなかった。上官は知らないことだが、士官学校時代にも喧嘩騒ぎを起こして放り込まれていたぐらいだったから。
けれども。独房の窓から見える、淡く輝く月を見上げて。
……シェアラは怒っているかな。それだけが気になった。
独房から出たシュバルツが初めに見たものは、シェアラの背中だった。
「どうして、あんなことしたの」
静かな声に抑えきれない怒りをにじませて、少女は聞いてくる。
「我慢できなかった。君にあんな侮辱をした奴らだ、自分では良かれと思って」
「よくない」
淡い褐色の髪が翻る。目が赤いのは気のせいではないはずだ。
「怪我して、独房にまで放り込まれて。カールの友達も、叔母さんもセレナもみんな心配してたんだよ。それなのに」
ともだち? みんな?
あっけに取られるシュバルツに、シェアラの表情が変わった。微笑を浮かべて青年の背後を指差す。笑っているのはウェイバーと、普段シュバルツを遠巻きに見ていた連中だ。
「美しい友情に、感動のあまり声が出ないか?シュバルツ」
ウェイバーが笑いながら青年を小突く。
「姫さまを守った騎士なら、もっと堂々としてろ。シェアラちゃんを連れてきたの、俺たちなんだからな。すこしは感謝しろよ」
「あの三人をぶちのめすんだから、強いよなあ。お前」
「前からその、話してみたかったんだけどよ。きっかけがなくてさ」
照れたように笑う者、おずおずと話しかけてくる者。きっかけがなかったのは、むしろ自分のほうだったのかもしれない。
「おーーし!シュバルツの出所祝いだ!今夜は飲むぞっ!!」
突拍子もないウェイバーの提案に、士官たち……シェアラまでもが拳を振り上げて賛同する。
「誰が出所祝いだっ!おい、勝手に決め」
そう叫んだシュバルツの服の裾を軽く引っ張ったのは、シェアラだった。
「いい友達だね、カール」
全面降伏。俺は君にだけは勝つことはできない。
「でも、ありがとう」
まだ少し痛む口元にそっと手が当てられた。周囲から冷やかしの声が上がる。
深い青い瞳に浮かぶ優しい光に、報われたような気がした。
店を訪れたシュバルツの肩を、ギゼラはそっと叩いた。
「……すまなかったね」
二度もあんたを疑ったりして。灰色の双眸に浮かぶ後悔に、シュバルツはもういいのだというように頷いて見せた。にじみかけた涙を拭き、明るさを取り戻した女将は、店じゅうに響き渡る声で、今日はあたしのおごりだよと宣言する。常連客からはもちろん,腹をすかせた若い帝国軍士官の一団から喝采が上がる。
それは後になって思い出しても、楽しい時間だった。
ギゼラの振舞う料理に、酌み交わされる杯。人見知りの激しいセレナですら、はしゃぎながら店じゅうを走り回っている。シェアラがきれいな声で陽気な歌を歌い、場を沸かせる。つづいたウェイバーが調子っぱずれの歌を披露しようとしたところ、やめろとか何とか言われて仲間たちに引きずりおろされる。
みんな笑っていた。シェアラも、そしてシュバルツ自身も。
……こんな日がいつまでも続いてくれたら。本気でそう思っていた。
けれども心のどこかでは感じていた。そして恐れていた。
穏やかな日々の終わりを。
「転属?」
深い青い瞳が見開かれた。店の賑わいが止み、いくつもの驚きがシュバルツに向けられる。
「ああ。今日、辞令を受けた」
帝国領南部にある前線の名を告げる。いま地上で最も激しい戦闘が行われているといわれる場所だ。
おめでとう。君も栄誉あるシュバルツ家の一員として存分な働きができるのだよ。
上官の言葉が遠くから聞こえていたことを覚えている。
不思議と恐れはなかった。 ただ、わずかの間過ごしたこの町に対する思いは、故郷に対するそれに等しいものに変わっていた。町だけではない、そこに住む人たちにも。
「そっか、行っちゃうんだ。カール」シェアラは短くそう答えただけだった。
「出発はいつ?」
「ノノ二週間後に」
それじゃ、いっちょ派手にお祝いしなくちゃなあ。口々に言う常連客たちを、シェアラは感情の動きを伺わせない瞳で見つめていた。シュバルツが話しかけると、料理のお代わりを持ってこようかと慌てたように笑う。驚きも、嘆きもそこにはない。
少しでも寂しいとは思ってくれないのか。予想もしていなかった反応に胸が痛んだ。
貸し切りとなった小さな店の中はごった返していた。
何であんたたちみたいな若い子が行かなくちゃならんのかねえ。先の戦争で一人息子を失ったという老女が嘆くと、みんな手柄を立てに行くんだ、そんな辛気臭いこと言うもんじゃねえと客の一人が笑い飛ばす。
「町の思い出に乾杯!」
赤い顔をして、仲間たちは拳を振り上げる。前掛けでそっと涙をぬぐうギゼラ。賑やかな場の意味を悟ってか、セレナはシュバルツに料理を乗せた皿を差し出したりと、子供なりに精一杯の気遣いをしてくれる。
ただ。
客たちの冗談に笑いながら店を歩き回るシェアラを緑の双眸で追う。
転属のことを話して以来、どこか距離を置くような少女の態度が気になった。喧嘩でもしたのかとウェイバーにからかわれたぐらいだ。現に、このささやかな宴が始まってからも、一言も話をしていない。
どこからか歌ってくれよと声が上がる。拍手と喝采の中、シェアラは店の中央へと歩いていく。
Ye banks and braes of bonnie Doon,
How can ye bloom so flesh and fair?
How can ye chant,ye little birds,
And I so weary full of care?
「いいねえ、じーんとくるぜ」流れていく歌声に、ウェイバーは聴き惚れている。
「そうかな」
「そうかなって、お前」
ウェイバーの驚きをよそに、シュバルツは歌うシェアラを見た。いつもの微笑み、明るく輝く瞳。けれども違う、声に生気が感じられないのだ。
Yeユll break my heart,ye warblings bird,
That warbles on the flowery thorn:
Ye minds me of departed joys,
Departed never to returnノノ
声が小さく途切れていく。今日は調子が悪いみたい。明るい声で告げた少女の表情に店内がどよめく。青年と目が合い、笑おうとして失敗したことに気づくと、シェアラは周囲の人間をかき分けて店の外へと走り出ていった。席から立ちあがり、シュバルツは初夏にしては冷たい夜気がただよう外へと少女を追った。
満天の星空の下、最初に町を歩いたときに並んで腰かけた石段にシェアラはいた。
「前線に行くのって、そんなにいいこと?」
シュバルツが近づくと、顔をうつ伏せたまま少女は言った。
「お祝いしなくちゃいけないこと?怪我したり、死んじゃうかもしれないのに」
わたしには分からないとシェアラは顔を上げた。深い青い瞳を彩る透明な雫には構わずに。
「本当は笑って送り出してあげたかった。でも、そう考えたらできなくなっちゃった」
「シェアラ」
「戦争はわたしから何もかも奪っていく」
この町も、音楽も、父さんも母さんもみんな。シェアラは呟いた。シュバルツが見たこともない、頼りない幼い子供のような姿で。
俺は何を一人で拗ねていたんだろう。寂しがってはくれないのかなどと。
手を伸ばし、シェアラの頬に触れた。
「いつか俺に聞いたことがあったろ。夢は何だって」
戦うことだけが軍人の勤めだと思っていた。それだけではない答えを見つけたような気がしたのだとシュバルツは告げた。
人が聞けば甘いことをと言うかもしれない。実現不可能な夢だと嘲笑うかもしれない。
それでも。
「この下らない戦争を終わらせる。帝国も共和国もなく人が行きあえる世界にしたい。それを守りたいんだ」
頬に当てていた手が静かに外され、シェアラの両手が包み込む。ずいぶんと小さな手であることに、シュバルツは今更ながら気がついた。
「シェアラだっていろいろな場所に行ける。沢山の人に歌を聴いてもらうことができる」
頭上を飾る夜空と同じ瞳を向けて、少女は微笑んだ。覚えていてくれたんだ、わたしの夢。そう呟いて。
「俺一人では無理だけれど、いつかきっと。沢山の仲間たちと一緒に叶えたい」
「約束しない?カール」
「約束?」
「そう、自分の夢を叶えるって」
「ああ」
約束しよう。
俺は軍人として戦いを終わらせる。わたしは歌姫としてみんなを勇気づけたい。
いつか、きっと。
笑いたい奴は笑えばいい。けれどもこの約束だけは笑わせない。
「うん、何だか元気が出てきたみたい」
「みんな驚いていたぞ。急に飛び出していったりするから」
店に帰ろうと言ったシュバルツに、シェアラははにかむように笑って星空を振り仰いだ。
「もう少しだけ見ていかない?」
照れながら、青年は石段に腰を下ろした。初めて会ったときみたいだねと隣で少女が微笑む。
今だけはこうしていよう。ふたり静かに遠い星空を眺めながら。
あたりはすっかり夜が更けていた。上機嫌のウェイバーを仲間たちが苦笑と困惑の表情で支え、先に戻っているからなとシュバルツに告げて歩いていく。
「さあ、あんたも小うるさい上官にどやされないうちにお帰り。また独房行きなんてあたしゃごめんだからね」
「もう、おばさん。その話はよしてっ」
叔母と姪の冗談に笑い、シュバルツは暇を告げて基地へと歩き出そうとした。離れたところからウェイバーの凄まじい歌声が響いてくる。明日基地に苦情が来なければいいけどな、そんなことを思っていた青年を呼びとめる声がした。
「おやすみ。また明日ね」
唇に残るやわらかな感触がよみがえる。赤くなった顔を見られまいと目をそらし、小さな声で返事をした。笑って頷くシェアラの姿に幸福を感じながら。
思いは心を離れ漂っていく。帝都にいる家族への手紙を書きかけたまま、いつしかシュバルツはやさしいまどろみへと引き込まれていった。
いつかきっと。シェアラにガイガロスの街を案内しよう。いや、ゾイドに乗せるほうが先だったかな。どこまでも続く荒野を駆けていく、国境線のない大地をノノ
開け放たれたドアが、凶事の使者だった。
「シュバルツ!」
「もう起きている」
引き出しにしまわれていた銃をホルスターに収めながら応じる。部屋を飛び出し、ウェイバーとともに怒号と混乱に満ちた基地の中を走っていく。
「どうなっている。敵が近くにいながら気づかなかったのか!」
「俺だって知りたいぜ!」
上官の所在を問うシュバルツに、はみ出たサンドイッチの具よろしくベッドの下に挟まって震えていやがったとウェイバーは皮肉げに吐き捨てる。
それでは誰がこの事態を収拾するというのか。爆音と振動、立ち上る黒煙のなか、尉官や兵士たちの軍靴の音が響き渡る。
「Bブロックにて火災発生、隔壁閉鎖システム作動不可能!」
「Aブロックより負傷者の救出要請です!」「向かえるものはいるかっ」
「迎撃システム機能、通常の75パーセントまで低下ノノ格納庫被弾、待機中のゾイド部隊、出撃できませんッ」
なんてこったとウェイバーが嘆くと同時に新たな爆音がした。頭を負傷し、二人の青年士官の前まで歩いて力なく膝をついた兵士にシュバルツは駆け寄った。謝意を呟く男にかまわないと答え、報告を促す。
「正体不明の部隊が」
言いかけて兵士は怪我の苦痛にうめく。それでもなお、すがるように言葉をついだ。
「町への攻撃を開始していますッ」
小さな店と、三人の家族が浮かんだ。シェアラ。
「ウェイバー」
「わかってるって!」
力尽きた兵士を近くの者に任せると、二人の士官は町へ向かう部隊の元へと走って行った。
どうしてこんなに遅いんだ。町への道程を、かろうじて動く旧式のトラックに揺られながら、シュバルツは緑の双眸に焦りを浮かべた。いっそ自分の足で走っていきたい。
「シュバルツ、焦るなよ」
「焦ってなどいない」
思ってもいなかった刺々しい言葉を口にしたことに気づき、うなだれる。飄々とした表情しか見たことのない顔に真剣さといたわりを浮かべて、ウェイバーは構わないぜと頷いてみせた。
「けどな、周りを見てみろよ」
荷台に幌をかけただけの薄暗い後部座席を見やる。不安と緊張に満ちたいくつもの顔が青年に集中している。
「気づいているか?お前の苛立ちが連中には伝わってる。上官がそれじゃ、部下はどうしていいかわからなくなっちまう」
「俺は指揮官じゃない」
「お前にはあるんだよ、シュバルツ。黙っていても人がついてくる、このどうしようもない戦争に終止符を打てるだけの何かがな。それが帝都のお偉いさんたちのお気に召さなかったとしても、いつかきっと」
黒い双眸に笑みを含ませて、ウェイバーはシュバルツの肩を叩いた。
「お前は最高の指揮官になる。それは俺が保証するよ」
「ノノウェイバー」
礼の代わりに一杯おごれよ、と言う黒髪の青年にかろうじて笑いかけたとき、車体が揺れて止まった。トラックの荷台から降り、眠りを破られた町の前に立つ。すぐ側を数人の兵士たちが避難誘導のために走っていった。
町の混乱は、基地のそれよりもひどかった。赤く染まった世界を逃げ惑う人々の姿が浮かび上がる。恐怖に悲鳴を上げる者、兵士にはぐれた家族を探してくれと詰め寄る者。
制止する兵士を押しのけて、シュバルツにすがりついてきた者がいた。店の常連客のひとりだ。避難するように告げると安堵もあらわに頷いたが、シェアラの行方をたずねた途端、顔が青ざめた。
「はぐれちまったんだよ、みんなと」
取り乱したギゼラが町に戻ろうとするのを無理に押しとどめて様子を見に来たのだ
という。懇願する男を兵士に託して、シュバルツは町を振り仰いだ。
穏やかな光景はなかった。あるのはただ、すべてを嘗め尽くそうとする炎だけだ。
駆け出そうとした青年を押しとどめる手があった。
「ウェイバー」
「行けよ。そして見つけてやれ」
黒髪の友人に頷き返し、シュバルツは走った。間に合えと祈りながら。
通りを、石段を駆けぬける。通いなれた小さな店の残骸が目に映った。吹きつけてくる熱気が苦しい。息をするのがやっとだ。
片隅に転がる人形と、瓦礫の間から救いを求めるように伸ばされた小さな手。どこかで銃声がした。狙撃兵が避難民に向けて発砲しているのだ。
すぐ側に数人の人間が倒れていた。突然訪れた最後の瞬間を理解しかねる表情のまま虚空を見つめている。シェアラの姿が重なった。
絶対にあっていいはすがない。こんな形で、何もかもが終わるなんて。
約束を叶えることもなく。
その時、歌が聞こえた。囁くような、祈るような響きが燃える町へと広がっていく。
背後へと振り返る。広場にたたずむ姿はシェアラだ。消えていく町を見つめながら、小さく唇を動かしている。
声を限りに叫び、駈け寄った。淡い褐色の髪が翻り、絶望に暗く染まっていた瞳がシュバルツをとらえる。わずかな希望が青年の中に生まれる。
シェアラは笑った。曇り空から差し込む光のように晴れやかに。
閃光と爆音、そして衝撃。薄れていく意識の中でシュバルツは一つの光景を見た。
いつか、ここではないどこかで。
君が歌う。俺は満ち足りた気持ちでそれを聴いている・・・・・・
星空の下で。
意識が戻ったとき初めに見たものは、灰色の天井と呆れたような、安堵したようなウェイバーの顔だった。
「まったく、お前は悪運が強いぜ」
爆撃に吹き飛ばされて、かすり傷ひとつで済んでいるんだから。
ウェイバーの声はどこか遠い。返事をしようとしたシュバルツに、水でも飲めよと黒髪の青年は水筒へと手を伸ばす。
「…シェアラは」
ウェイバーの手が止まった。その問いを恐れていたかのようにシュバルツを見る。
「すぐ側まで行ったんだ。俺に気づいて、振り返って」
笑ってた。
黒髪の青年の顔が泣き出しそうに歪んだ。何かを言おうとして思いとどまっている。
「無事なんだろう、俺だって助かったんだ」
身体を起こす。ウェイバーの制止も無視して立ちあがり、歩き出す。
続く言葉は聞かなかった。よろめきそうになる身体を叱咤し、シュバルツは負傷者であふれかえる倉庫から外へと歩みを進めていった。
ウェイバーの奴、悪い冗談を言うな。シェアラはここに来ている。毛布を頭からかぶって、俺を見るなりこう言って笑い出すんだ。どうしたの、その凄い顔。自分だって鼻の頭に煤をつけているくせに。
どこをどう歩いたのか、覚えていない。
壊滅を免れた基地の、町からの避難民を収容した一角のさらに奥の荒地、灰色の軍用毛布に包まれたものが並ぶ場所に来ていた。取りすがって嘆く者、座り込む者の姿があちこちに見うけられる。
そのひとつを守るように付き添っていた中年の女が顔を上げた。ギゼラだ。放心した灰色の双眸がシュバルツを見上げる。それから、傍らにあるものに向かってやさしく話しかけた。
「シュバルツさんが来てくれたよ」
のろのろと膝を突く。そっと取り払った毛布の下から現れた淡い褐色の髪。
口元にかすかな笑みを浮かべて、シェアラは眠っていた。
けれどもその瞳が開くことはない。明るい声で笑いかけてくれることもない。手に触れる頬の冷たさが現実のものではないようだ。
「笑ってるんだよ、この子。こんなときでも」
よっぽど嬉しかったんだねえと呟いた女の目から涙が溢れた。顔を覆い、低く嗚咽をもらすギゼラの肩に手を置いた老女が、後は町の者だけにして欲しいと、どこか疲れた、諦めと悲しみが入り混じった表情でシュバルツに告げる。
力なく頷いた。立ちあがり、町の者たちに背を向けて歩き出す。人が集まり、青年から少女を隔てていく。
遠くを見やると、廃墟となった町並みが煙の中に見えた。
均衡は破れた。無抵抗の町の襲撃をめぐって、いずれ帝国と共和国は互いに非難声明を出し合うだろう。首府からは新たな部隊が派遣され、生き残った者は避難を始める。
ここは戦場になるのだ。
軍人は戦うことが義務だ。だがそれは、この国のためだけであってはならない。戦いが真っ先に誰を犠牲にするのか、それを決して忘れるな。
今なら父の言葉が理解できる。けれどもあまりにも遅すぎた。
何一つ、不可能なことなどないと信じていた。
それなのに俺は、笑いながら差し出された手ひとつさえ守ることができなかった。
この痛みはどうすればいい?
誰を憎めばいい?
くにを?ゾイドを?それとも人間たちを?
何もかもを壊してしまいたい衝動、そして怒り。それらに身を委ねかけたシュバルツの服を小さな手が掴んだ。
「…セレナ?」
煤に汚れた顔を上げ、泣き腫らした瞳をまっすぐに青年に向けて。幼女はめいいっぱい背を伸ばし、手にしていたものを差し出した。
「おねえちゃんが、渡してって」
それだけを呟くと、セレナはきびすを返して町の者たちの元へと戻っていく。
手に残されたのは、踏まれた跡も痛々しい、深い青い小さな花。
「Forget?me?not」
かすれた呟きがシュバルツの口から漏れる。穏やかで優しい日々の奔流が、昏い怒りを押し流していく。
涙と共に。
また、あしたね。基地に戻るシュバルツに、笑いながら向けられたシェアラの言葉。
今ならわかる。広がる戦火の中、シェアラは恐れていた。今日と同じ明日が来ないかもしれないことを。
けれどもそれ以上に信じていたのだ、抱えきれない夢を、そして明日を。
わすれないで。あなたの戦う意味を。そして約束を。
忘れない。
涙が涸れた後に、俺は軍帽を手に取る。そして歩いていく。
血と硝煙に満ちた戦場へ。
けれどもそれは新たな
いつか戦いを終わらせるために。
誰も涙を流さない日のために。
沸きあがった歓声と拍手に、我に返った。涙をぬぐう者、熱狂的に叫ぶ者の姿がシュバルツの視界に映る。
遠くからものを見ているような感覚に、やや戸惑いを覚えながら舞台を見上げる。
兵士たちに、あでやかな笑みを返しながら優雅に一礼する歌姫の姿があった。
思い出していたきのうは、それほどまでに短い間のこと。
一度舞台を去ったものの、今や会場を揺るがすほどになったアンコールの声に応え、歌姫が再び現れる。さらに沸き立つ兵士たちの歓声の中、夜空の瞳がシュバルツ
に向けられた。
どこか責めるように。
あれほど大勢の人間で賑わっていた会場も、今は閑散としていた。本格的な片付けは明日に回すとして、照明などいくつかの器材を先にしまうことになったため、慰問会の担当者が数人残って動き回っているだけだ。
「終わってしまったな」
呟くシュバルツに、ハーマンはまだ赤い目をこすりながら揶揄してくる。
「大佐は反対していたんじゃなかったのか」
「ノノたまには悪くない」
「そうだな。久々に心が洗われたような気分だ」
基地へ戻るかと笑うハーマンに頷き、並んで歩き出す。
両国を代表するふたりの指揮官の姿に、新兵らしい少年が慌てて敬礼をしてくる。
今日は無礼講だろうとハーマンが兵士の緊張をほぐそうとしているのを横に、華やかな祭りの後に感じる一抹の寂しさを抱えて、シュバルツは誰もいなくなった舞台を見やる。
「何だよ、大佐はあの別嬪さんと知り合いだったのか」
花までもらって、にくいね色男は。からかってくるアーバインに、右眼がかすかに
赤い理由は何だと突っ込みの一つでも返してやろうかと思っていると、
「ああ、あたしもう涙が出ちゃったわ!なんてすてきなの」
感動覚めやらぬ口調で、ムンベイがうっとりと両手を組み合わせ、生気にあふれた黒い瞳を輝かせる。
「あたしも運び屋やめて、歌姫になろっかな~」
「やめとけって、柄じゃねえから」
命知らずなことを言ったアーバインの両頬を、褐色の指が左右に引っ張った。
「口はナントカの元っていう言葉、身体で証明してあげるわよお」
ぎゃーやめろと叫ぶ者、慌てて止めに入る者。すぐ側では後片付けをさぼろうとしたバンを捕まえて、トーマが何やら詰め寄っていた。どうやら今度ばかりは逃す気はないらしいが、重い器材を運ぼうと顔を赤くしているフィーネに気づき、慌てて駈け寄ろうとして転んでいる。ガーディアン・フォースの連中はいつだって騒々しい。
まったく。
自然と苦笑がこぼれる。小さな青い花束を潰さないよう、そっと手にこめる力を加減しながら、シュバルツは過去のつづきを追っていた。
運命が、優しく微笑みながら隠し持つ刃を振り下ろす者ならば、時はただ静かに、すべてが過ぎ去っていくのを見守っている。
事件から数日後、帝国軍は基地の放棄を決定した。
生存者はすべて南部戦線に配属されることになり、町を去る日、シュバルツは部隊を見送る人混みの中にギゼラとセレナの姿を求めた。
本当は二人ではない姿を見つけたかったのかもしれない。悪い夢を見たんでしょうと笑って欲しかったのかもしれない。
見つけることはできなかった。そのまま、シュバルツは戦場に立っていた。帝国からも共和国からもただ一言、地獄とだけ称された場所に。
共に笑いあった仲間は一人、また一人といなくなった。ある者は愛機と共に戦場に消え、ある者は身体を、こころを壊していった。
死の囁きは常に側にあった。それでも、青年は生きることを考えた。倒れるわけにはいかなかった。
戦火に荒れた土地を通り、絶望に疲れきった人々の顔を見るたびに、あの町の光景が浮かんだ。ギゼラの涙と、踏まれた花を差し出したセレナの瞳が。悪夢に苛まれた夜、星空の下で自分に向けられたシェアラの微笑みを思った。
だが、長引く戦いは、やがて一つの疑問をシュバルツの中に芽生えさせる。
辺境の基地と、小さな町を襲った惨事と呼応するかのように帝国全土に広がった共和国打倒の声。膠着状態にあった戦火が再び拡大したのは、あまりにもできすぎた流れではなかったか。
戦況が帝国側に有利に帰結した後、休暇のため帝都に戻ったシュバルツは、出迎えた家族との再会を喜ぶ間もなく、あの町の襲撃事件を調査した。膨大な資料を読みこなし端末に向かう青年に、ウェイバーは何も言わずに協力してくれた。
やがて判明した事実には愕然とした。
宮廷を二分していた泥沼の権力抗争の余波が、帝国軍内部にも広がっていたこと。
国民の間に広がる厭戦ムードをを懸念した主戦派が、国境付近の襲撃を自作自演し、反共和国の宣伝材料として利用しようと画策したこと。事が露見した場合には、町そのものを反帝国組織の拠点として報道し、攻撃を正当化するようマスメディアと申し合わせていたこと。
自分たちの栄達のためなら、何の罪もない町一つを犠牲にすることさえ厭わない者がいる。シェアラや仲間たちの未来を奪ったのは、戦争という狂気が生み出した醜い現実だった。
端末に羅列された主戦派の幹部たちの名に、両拳を叩きつけたシュバルツを懸命に止めた戦友の表情に満ちていたものを忘れることはできない。
ウェイバーが軍を辞めたのは、それから間もなくのことだった。
「俺はとことん、軍人にゃ向いてなかったな」
別れの日、ウェイバーはそう言って寂しげに笑った。口には出さなかったが、真実は深い傷跡だけを彼に残した。引き止めることなど、どうしてできただろう。
一緒に出て行こうと誘われたシュバルツが、何も言わずに小さく首を横に振ったとき、黒髪の友は一瞬、痛ましげな表情を見せた。聞いてみただけだよと冗談にごまかしながら、双眸に光るものを袖でぬぐう。
「おまえみたいな馬鹿、見たこともないぜ」
言葉に隠されたあらゆる思いに、シュバルツがウェイバーの顔を見返した時、そこに涙はなかった。
「さっさと最高の指揮官になっちまえ」
最後にそう言った友は、いまはひとりのゾイド乗りとしてこの星のどこかを旅している。
階級や序列に固執する人間たちには不評なバン・フライハイトの態度が、シュバルツにとって逆に心地よいのは、ウェイバーを思い出させるからだ。時々基地に送られてくる、下手くそな字で近況を綴る絵葉書の中に切り取られた、抜けるような青空と同じ自由な魂が。
それに、最高かどうかは知らんが、少なくともお前は俺の行末を言い当てていったな。ウェイバー。
軍人が本当に守らなければならないものは、どこにでもあるようなささやかな日常。帝国も共和国もない世界へとつながる小さな流れだ。そのために必要な力を、ほんの一時だけ預かっているにすぎない。
戦功を上げても、賞賛を浴びても、軍の大半を占めるようになった主戦派からは距離を置いたことが、上層部の忌避をかった。
シュバルツ家の嫡子は、帝室と国家に対して翻意あり。
級友にそのことをからかわれたトーマが、相手を殴って母を驚かせたことがあった。あちこちにかすり傷を作り、兄さんを侮辱されたことが悔しいと泣く弟の姿が辛かった。自分よりも直接、主戦派の非難の矢面に立たされていたであろう父は何一つ言わなかった。道を違え、鉄格子の向こうに隔たれた友は愚かだと説得しようとした。
言われるまでもなく、俺は愚者だ。時代の流れに逆らってまで、無意味な戦いを終わらせる可能性を持った少年に、一縷の望みを託したぐらいに。
時は、あらゆるものをとどめようとはしない。
長かった戦争は、別れていった友たちの代わりに得た仲間と、国や立場の枠を超えた人々の働きによって終結に向かった。
多少ぎこちなくはあるが、帝国と共和国の人間は互いに行き来し、言葉を交わし始めている。分かり合おうとしている。ゆっくりと時間をかけて、自分がシェアラに語った夢は叶おうとしている。
だが。
誰よりも望んだこの世界に、君はいない。
「おいおい、今度はぼんやりと考えごとか。シュバルツ大佐」
にやにやとする相手に、緑の双眸を向けて応じる。
「滂沱の涙を流すどこかの男に、ハンカチを貸してやったのは誰だ。ハーマン少佐」
「それは悪かったな、返そうか」
「いらん」
数年前であれば、敵として戦場で対峙していた男と、漫才のような会話を交わしていることすら信じがたい。
「しかし、あれだけの歌姫がよくこんな所に来てくれたな」
「妹なんだ、幼馴染の」
ハーマンの言葉に歩みが止まった。
「慰問会のことを聞いて、ぜひにと申し出てくれたらしい」
その幼馴染はと問いかけたシュバルツに、快活な青年らしくもなく、ハーマンは青い双眸に悲しみをよぎらせた。爆撃の犠牲になったのだと静かに付け足して。
では、彼女は。
シュバルツの中ですべてがつながった。
深い青は夜空の色、歌姫の瞳。そしてきのう。
わたしをわすれないで。
通りすぎたことにすら気づかないほどに小さな花の叫びは、君の声だったのに。
「歌姫は?」
急くように尋ねたシュバルツを怪訝そうに見ながら、ハーマンは物資運搬と民間人の出入り口を兼ねた通用門の方を指さした。
「ああ、今度はガイガロスの方へ行くと言っていたな。ついさっき出立の支度をノノ大佐!」
ハーマンの驚きを背に、シュバルツは走り出していた。軍帽が外れ、金色の髪が翻る。兵士たちが慌てて道を譲り、あっけに取られながら自分たちを追いぬいていく帝国軍大佐の後姿を見送っている。
会わなければ、会って確かめなければ。
走りながら、いつしかシュバルツは戻っていた。あの頃と同じひとりの青年に。
通用門の前に留められた一台のグスタフが見えた。
付き人らしい女に急かされているのを、何かを待っているような表情で懇願する歌姫の姿が見えた。だが時間がないと諭されたらしい。悲しげに一度基地のほうを振り仰いで、グスタフに乗りこもうとする。
「待ってくれ」
歌姫の背に向かって、シュバルツは叫んだ。
「シェアラノノいや、セレナ」
歌姫は振り返った。晴れ渡った夜空の瞳に言い表せない思いをたたえて。
「覚えていてくれたんですね。シュバルツ大佐」
歌姫のもとに駈け寄った。息を弾ませながら、手の中の小さな青い花を差し出す。
「君とこの花を見たときにはまさかと思った。そんな筈はないと」
手のひらから零れ落ちる砂のように失われた生命。救えなかった痛みと、自分の無力さに涙を流した日は遠い。
「歌姫になっていたとは知らなかった」
「わたし、叶えたかったの。姉さんの夢を」
澄んだ瞳で、かつて姉の後ろではにかみながらシュバルツを見上げていたセレナは微笑み返した。
戦場になった町を逃れ、ガイガロスの下町に移り住んだこと。元帥率いる主戦派から帝都を奪還した祝賀パレードの賑わいを病床から聞き、満足そうに頷いて息を引き取ったギゼラのこと。奨学金を受けながら音楽学校に通ったこと。戦火が収まりつつある今、あちこちの町で歌うことができるようになったことを、明るく、ときに悲しみを抑えながら語る。
「歌っていると、姉さんが側にいるような気がするの。まだまだかなわないけれど」
歌姫の姿に面影が重なり、かすかに滲む。
君は生きている。いまここに、セレナと一緒に。
「素晴らしい歌をありがとう」
姿勢を正し、シュバルツは帝国式の敬礼を歌姫に返した。
「駐留部隊の士気鼓舞のために、危険を冒してまでここを訪れてくれたことを、帝国軍代表としてノノ感謝する」
綻ぶ花のような笑みがセレナの顔を彩る。それだけで十分だった。
思わぬ人物の登場に、遠慮していたらしい付き人が、もう時間がないと声をかけてくる。セレナはシュバルツに暇を告げて数歩歩きかけたが、不意に立ち止まり、振りかえった。
「知っていますか。Forget?me?notの、もうひとつの意味」
次第に高まっていくグスタフの起動音の中、歌姫の唇が動く。そして伝える。
きのうからの言葉を。
「いきなり走り出したと思ったら、ここだったのか」
呆れかえったような声に、シュバルツは振り返った。取り落とした軍帽を差し出しながら、ハーマンが立っている。
「本当に大佐らしくもない。セレナに用でもあったのか」
「礼を述べていただけだ」
軍帽を受け取り、目深にかぶりながら、シュバルツは手にした花に視線を落とした。
「歌と、それから約束の」
「約束?」
いまハーマンに話すべきだろうか。そう思いかけてやめる。
この戦いが終わったら、どこかでグラスを傾けながら話す機会もあるだろう。小さな町と、抱えきれないあしたを信じていたひとりの少女のことを。
俺は君に驚かされてばかりだ。昔も、そして今も。
「いや、何でもない」
短く呟くと、シュバルツは緑の双眸を静かに、基地を離れていくグスタフへと向けた。
シェアラ。
君は夢を叶えてくれた。セレナと共に、君はこの大地をどこまでも歩いていくだろう。
だから、俺は誓おう。
ささやかな願いを踏みにじろうとする者たちから、人も国も境のない世界を守りきることを。
大切なものを失う痛みに涙するものがいないように。
この星空が、あの時と同じように澄み渡っているように。
いつまでも君の歌が響いているように。
それは約束。
(終)