HOME > ZOIDS > 『こんなに長い幸福の不在』

writer:白河愁子さん
category : ZOIDS小説

「神さま、僕の望みは、」



 レイヴンはそこにうずくまっていた。
 朝夕の冷え込みが少し厳しくなった秋口の、あたりは日も落ちかけ、薄暗くなった頃、少年はひとり、軍の練習地近くの路地の隅で膝を抱えていた。
 ろくに手入れもしないでいる黒髪や、大して構わない身なりは洗練とは程遠いものだったけれど、そんなものより何よりその灰がかった瞳が何より研ぎ澄まされている、レイヴンはそんな子供だった。およそ子供らしく無い知性と理性がその瞳にはあり、顔はよく整っていて愛らしいとさえ言える造作をしているにも関わらず、刺々しい。
 しかし今のレイヴンはその瞳の色も曇り空に似て、表情も暗く淀んでいた。いつもなら突き刺すほど鋭い少年の周りの空気が、今はゆるいゼリーのような鈍さに変わっている。
 レイヴンは、沈んでいた。彼には何日かに一度、こんな日は必ずやってくる。こんなふうにひとりで、誰にも目につかないようなところで小さくなっていなければ落ち着かない日が。
 こうしていても迎えが来ることはない。
 帰るところはひとつだが、けして帰りたい場所ではなかった。
 だからと言って帰らないわけには、いかない。そこにしか自分を生かしてくれるものはいないし、生きられる場所もそこしかないのだから。
 葛藤に似ているそれは、どちらかというと、諦めに半歩近い気持ちだった。
 逃げようとか抗おうとかいうのではない。
 ただ、気持ちの特に鬱々としている日はこうして、ひとりでいる時間をわずかでも引き延ばしたいと思う、それだけだ。
 真っ暗になってしまう前に腰を上げるつもりだった。
「元帥閣下の坊やじゃねえか」
 口笛といくつかの足音と、嘲笑を含む声が聞こえて、レイヴンはのろのろと顔を上げた。
 何人かの、訓練を終えたばかりとおぼしき下級兵士たちが、うずくまるレイヴンを見下ろしている。
 どの兵士も、よくは見えないが恐らく、いやらしい薄笑いを浮かべているのだ。
(こんな暗い中で、こんな影みたいに小さくなっている僕を、からかうために見つけるなんて、なんてどうしようもない連中なんだろう。プロイツェンや僕の世話役が近くにいるうちは、まるっきり意気地のない犬みたいな顔して僕を見るくせに。)
 少年は心中で毒づいたけれど、表には少しも出さずに黙っていた。
 兵士達はしきりにレイヴンに向かって、いつもと同じようなことを異口同音に言っている。
 内容といったら、レイヴンがまだ十三になるかならないかの子供であることや、拾われてきた孤児であることに対する嘲り。そして、元帥の後ろ楯があることと、あと、容姿、それらを引き換えに、実力も無いのにいい目を見ている、ということ。そんなことが大体の主旨だ。
 馬鹿げてる。レイヴンはやはり内心で吐き捨てた。
(こいつらの言うたったひとつだって僕のせいであることじゃない。なんて低能。ただの嫉妬なんだ。馬鹿なだけならいいのに、馬鹿なことに気付かないなら、低能だ。ここの連中はどいつもこいつもこんなことを言うばかりだ。口にしない奴だって態度が、目が、そう言ってる。プロイツェンもこんな軍隊を養ってるなんて、本当に馬鹿みたいだ。)
 いつもなら言わせたいままにしておくレイヴンだったけれど、今日は本当に気分が悪くて、もうどうしようもないくらいに鬱々としていたから、気付かれないくらい小さく右腕を動かした。
 プロイツェンが、レイヴンのまだ小さいてのひらに馴染むように特別に造らせたグリップを握る。
(まったく、変に気の回る人だな、プロイツェンも。)
 そんなことを呑気に、ぼんやり考えながら、銃口を向けた。
 少年が引き金を引くのは速く、兵士達は薄笑いのままひとり残らず殺された。
「・・・レイヴンが?」
「は・・・、現場付近でレイヴンらしき人影が目撃されたとのことです。恐らく」
 軍施設の中にあの年頃の背格好の人間が、レイヴンの他にいるわけがない。使われた銃を調べればはっきりすることだが、4つの銃殺体を作ったのは、十中八九、あの少年だろうと知れた。
 プロイツェンはハーディン准将の報告を、その確実性を疑わずに聞きしかし、第三者に容易に想像されうる困惑や怒りや落胆といったものはひとかけらもなく、ただ、一言呟いた。
「引き金を引けばあとは惰性だ」
「・・・?」
 呟きに、准将は怪訝な面持ちをする。それには構わずプロイツェンは薄く笑って命じた。
「・・・ハーディン准将、レイヴンを連れて来たまえ。叱責や罰は無用だ」
「ハッ」
 准将が退室するのを見送るまでは酷薄な笑みを浮かべていたプロイツェンだが、レイヴンがいつもと変わらない、少し拗ねたような態度で入室する頃にはそれは失せていた。感情の伺えない独裁者の表情だ。赤い瞳を見てもその喜怒哀楽は見えない。それがむしろ不穏だった。
「昨日のことで、でしょう?」
 何を言われるより先にレイヴンが口を開いた。
 まっすぐ姿勢を正し、執務室の椅子に悠然と腰掛けているプロイツェンの目をしっかり見据える様子は、悪びれたところや咎めを恐れる感じはない。しかしほんの少し、焦っているようにも見えた。
 少年が自らの手で人を殺したのはこれが最初だ。
 最初。
 最初だとレイヴンはわかっていた。次があって、またその次、次があることを。だったらその最初がいつでもいいと思った。引き金を引くのはいつでもいいと思った。それが昨日。
 多少の打算もあった。組織の中の噂は瞬く間に拡がる。如何に上が睨みを利かせようが何をしようが。これでしばらくは、レイヴンをあからさまにからかいの的にする輩はいなくなるだろう。手を出されることも、プロイツェンに養われている以上、あり得ない。
 しかしそんなことよりも、自分を『好き勝手に造型しているもの』の目指している方向をこの子供は知っていた。
 だから自分は『人殺しが出来た方がいい』。
 今、例え咎められるとしてもそれは、人を殺したことでは無く、問題を起こしたことを叱責されるのだろう。そして子供らしく怯えてみせたりしてはいけない。
(僕はなにも怖がっていないんだ)
 そんな気負いが焦りのように見えたりした。
「レイヴン」
「安全装置はちゃんと外しましたよ」
 重々しく名を呼ばれ、間髪入れず少年は答えた。
 それにほんの、何百分の一秒という短い一瞬だけ呆気に取られたかの表情をしたプロイツェンは、次の瞬間にはまた、あの薄い笑みを浮かべて、
「そうか」
と、一言だけなんでもないように言った。満足、しているように見えた。少年を『好き勝手に造型しているもの』は、満足しているようだった。そしてまた、同じ何気ない調子でこう言った。
「神なぞ忘れていろ」
「・・・どういう意味です?」
 唐突に言われた意味のわからない言葉に、少年は怪訝を通り越して不快そうな顔をする。
「おまえが望みを忘れていればその方がおまえにとって良いのだということだ」
「わかりませんね」
 素っ気無く答える。たまにプロイツェンはこんな、レイヴンにはよく意味のわからないことを言い、その度にレイヴンはこんな愛想のない答えを返す。こんな問答は嫌いだった。正体のわからない言葉を投げかけられるのは、まるで呪いでも掛けられているような気がしてならないのだ。いつか芽を出す悪い種を蒔かれているような気が。
 レイヴンの不愉快そうな態度を歯牙にもかけず、プロイツェンは一層笑った。
「レイヴン、誰に向かって引き金を引いた?」
「・・・」
 その問いかけには少年は耳を向けた。答えが無言であるのがその証拠だ。
「誰にだ」
「もう殺した」
 乱暴にそれだけ言って、レイヴンは踵を返した。
 たまらなく気分が悪くて、早くここから出て行きたかった。
 それなのに、背中からまた、プロイツェンの尊大な声が名を呼んでくる。舌打ちをしそうだった。
「レイヴン」
「・・・まだ何か?」
「おまえに新しいゾイドをやろう。そうだな・・・セイバータイガー、あれならおまえの満足に足るだろう」
「それはどうも」
 もう振返らずにおざなりにそう言うと、退室の挨拶もなにもなしに両開きの大きな扉を押した。扉がゆっくり、完全に閉まってしまうまで、背後からプロイツェンの低い笑い声が聞こえて、それがひどく耳に残ってしまったから、もう少なくとも今日一日はこの気分でいなきゃならない、とレイヴンは思った。
 とんでもない憂鬱と苛立ち。そればかりが胸の内を埋め尽くして、身体の中のなにもかもを吐き出したい気持ちだった。
 そんな陰惨な心持ちであるにも関わらず、廊下を早足で行くレイヴンの目の前を塞いだ女将校、ハーディン准将の姿と、その怒気を孕んだ___そしてそれはどうやら自分に向けられているらしい___顔を見て取って、レイヴンは目眩すら覚えた。
(なんて日だろう・・・!)
 レイヴンはあからさまに顔をしかめた。
「貴様、自分のしでかしたことがわかっているのか!」
 案の定、ハーディンは怒りに声を震わせてレイヴンを叱咤した。
 ここからならプロイツェンのところまでは声が届いたりしないんだろうな、とレイヴンは思った。
(プロイツェンは構うなと言ったかもしれないけど、(だから執務室に連れてこられる間、彼女は何も言わなかった)この人にしてみれば、ただでさえ気に喰わない子供(僕のことだ)に大変な事後処理を押し付けられたりなんだったりで、でも僕は無罪放免で、腹に据えかねてるんだろう。だけど、ハーディンって女があのプロイツェンに決定的に逆らえないことくらい知っている。)
 レイヴンは軽く息を吐いた。
「・・・プロイツェンはいいって言ったんだから、もういいだろう准将?」
「小僧・・・ッ!」
 小馬鹿にする調子に、今度こそハーディンの顔が憤怒に染まる。
 レイヴンの胸ぐらに掴み掛かりそうな勢いだったので、レイヴンはさっと身を引いた。
「したことって?したことなら知ってるよ、人殺し、ひとごろし!それだけだ!」
 逃げられるだけの距離を取り、辺りに響き渡る大声で、笑い飛ばすような調子でレイヴンは叫んだ。レイヴンの近くに理知的に、注意深く、そしてほんの砂のひとかけらほどの愛情を持ってレイヴンを見てくれる大人がいれば、それがどれだけ自分の中身をえぐって、血を吐き出す叫びだったか知れただろうに。
「悪魔め!」
 怒りと憎悪のすべてをこめて吐き捨てられたようなその罵倒を背に、レイヴンは駆け出した。
 およそ聞きたく無いことばかりでここは満ちていて、どこにいても苦痛だ。
 それでも駆け出さずにはいられなかった。泣き出すことは出来ないかわりに。
 早くここから、

(随分たくさん走った。
二度と戻れないならそれが見えなくなる遠くまで行ってしまおうと。
そう思ったから、振返らないなら、平気だと思った、誰より速く走れるのだから僕は。
でも、どうして。)
(どうして飛べない?)

 レイヴンは跳ね起きた。
 傍らのシャドーがその気配にぴくりと頭を上げる。
 夢を見ていた。
 汗が滲む。握り締めた手のひらがそこに心臓があるように疼く。息が上がる。目の前にあるものが見えないで聞こえないものが聞こえる。喉が渇き切っていた。カラカラだ。
 頭上でジェノブレイカーの赤い巨体が二つの月明かりに照らされて鈍い光を放っている。
 それを見上げ、ぎり、と唇を噛んだ。
 顔を、痛みに耐えるように歪める。
 ひとりで生きていけるだけの、何かを怖がらずに恐れずに怯えずに、媚びずに生きていけるだけの力と精神と身体。
 どれも今の自分にはあるはずなのに、夢を見る。
 どうして、
(何が欠けている。)
(何が足りない。)
(何があれば俺はここから、)
(飛んで、)

 両の手のひらを組んで、額を押し当てた。垂れた前髪が顔を隠す。肩が震える。冷たい汗が顎を伝い、ぱた、と落ちた。

 恐れるように渇き切った喉を、もつれる舌を、凍った心を、懸命に押し動かして、
「 、俺の望みは、」



口にした途端、過去が一度に血を吹き出した。

(そして)
(忘れることはない。僕は決して救われたりしないのだということを。)